【夕暮れに、なお光あり】 老いの入舞 渡辺正男 2021年7月11日

 先日、日本基督教団国分寺教会の礼拝に招かれました。以前12年間仕えた懐かしい教会です。今回久しぶりに、主日礼拝の説教を依頼されたのです。国分寺教会には広い庭があります。昔、いろいろな草花を植えました。ミニハーブ園を造ったりもしました。その庭が今どうなっているか、いささか不安でした。けれど、アジサイや草花が美しく咲いていて、庭全体によく手が入っていました。とてもうれしく思いました。

 私は80代も半ばになりますので、今回が最後の機会ではないかと思い、説教の冒頭で、「老いの入舞の思いです」と語りました。「入舞」という美しい言葉は、辞書には「物事の終わり」と説明されています。本来、「舞人が、舞い終わって舞台から降りて引き揚げる時に、もう一度舞台に戻って、名残を惜しむかのように一舞、舞ってから引き揚げる」意のようです。「老いの入舞」という言い方もあります。「老人になって最後の花を咲かせる」という意味に使われますね。

 世阿弥の晩年の著『花鏡』に、「人の嫌ふ事も知らで、老いの入り舞をし損ずるなり」というきびしい一文があります。これまでの蓄積に安住していると、「老いの入舞」とはならないで、人に嫌がられる、というのです。世阿弥は、齢を重ねた者こそ、この時期でなくてはできない大事な学びがある、と自戒するように語っているのだと思います(能作家でもあった多田富雄のエッセイ集『ビルマの鳥の木』に、「老いの入舞」と題する興味深い文章があります)。

 国分寺教会の礼拝説教を、私は「老いの入舞」の思いで務めたのですが、どうであったでしょう。連れ合いだけは、「あなたなりの入舞でしたよ」とねぎらいの言葉をかけてくれましたが。

 牧師夫妻の引退ホーム「にじのいえ信愛荘」の礼拝に、長年月一度出席して、説教のご用に当たってきました。入所者も、礼拝説教を担うのですが、躊躇する方が多いようです。説教の中で「入舞」という言葉を紹介しました。すると、90近い先輩の方が、「私の老いの入舞です」と言って説教の務めを申し出られました。そして、何度か、淡々と御用をされました。

 それぞれに、それぞれの「老いの入舞」があるのですね。

 「老いた者には知恵があり/長寿の者には英知があるというが……」(ヨブ記12:12~13 )

 わたなべ・まさお 1937年甲府市生まれ。国際基督教大学中退。農村伝道神学校、南インド合同神学大学卒業。プリンストン神学校修了。農村伝道神学校教師、日本基督教団玉川教会函館教会、国分寺教会、青森戸山教会、南房教会の牧師を経て、2009年引退。以来、ハンセン病療養所多磨全生園の秋津教会と引退牧師夫妻のホーム「にじのいえ信愛荘」の礼拝説教を定期的に担当している。著書に『新たな旅立ちに向かう』『祈り――こころを高くあげよう』(いずれも日本キリスト教団出版局)、『老いて聖書に聴く』(キリスト新聞社)、『旅装を整える――渡辺正男説教集』(私家版)ほか。

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