【Road to えきゅぷろ2022】 シリーズ「あの頃、私はエキュかった!」②論争相手ではなく友人として 2021年7月11日

 エキュメニズムの難しいところは、誰も「エキュメニズムとは何か」という問いに対して全クリスチャンが共有できるような答えを持ち合わせていないことである。「教会の一致」を目指す思想・運動であることは疑いようがないが、それでは「教会の一致」とは何か? 「教会の一致」は本当に望ましいのか? 一つの教派・教団であっても神学的に一枚岩であるとは限らないのに、現段階で「教会の一致」を考えることにどの程度の意味があるのか? 突き詰めて考えていくとエキュメニズムは疑問に満ちあふれている概念である。

 「えきゅぷろ!」は、このような哲学的な問いを度外視して「宗教改革500年だし、とりあえず集まって何かしようぜ!」という極めてミーハーなノリで始まった(と、筆者は思っている)。今にして思えば、これは不真面目なようで画期的な出来事であった。「教会の一致」は、教義的なすり合わせの側面が最も注目され、それは当然のことといえるが、神学はとにかくややこしい。それゆえ我々は、ともすれば教義の各論的な話ばかりにとらわれて、血の通った話し合いができなくなってしまう。そもそも若者にはそのような議論に影響を与える力もない。そのような中で「とりあえず集まろう」は重要な突破口であった。「えきゅぷろ!」の足跡は、「相手の顔が見える・気軽に話ができる」ということがどれほど貴重なことであるかを噛み締めてきた歴史である。

 イベントのコンセプトや内容について話し合う時、当然教派間の違いによる衝突を避けて通ることはできない。同じ宗教なのか、と思わされるほど教義や儀式に関する習慣・考え方が異なることが露呈した。途中までは互いに同じ考えで話しているつもりで会議が進んでいくが、だんだんピンと来ない発言が増えてきて、よくよく確かめてみるとまったく違う前提で話していた、などということが幾度となくあった。

 それでも、「こんなのやってられるか」「いくら話しても無駄だ」というふうに(なんとか)ならずに活動を継続してこられたのは「とりあえず集まろう」というコンセプトがあったからだ。我々は事務的な協議・交渉・議論の相手ではなく、主イエス・キリストに連なる友人として出会った。相手を論破することよりも、愛する友人の話に耳を傾け、隣人として理解できるように努めるプロセスが重要であり、そのためのスペースとして機能することが「えきゅぷろ!」の役割である。

 今後エキュメニカル運動がどのような道をたどっていくのか、想像することは容易ではない。しかし青年が「えきゅぷろ!」を通じて親しい友人として結ばれ、信仰や教会のあり方について気軽に、ざっくばらんに話し合う今の経験が、将来大切な資本として生かされることを信じている。

(スタッフ・下川正人)

【Road to えきゅぷろ2022】 シリーズ「あの頃、私はエキュかった!」①エキュメニカルする気あんの? 2021年7月1日

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