【夕暮れに、なお光あり】 峠を越えて、独り 上林順一郎 2021年8月1日

 「まだやれるが、辞め時で、ぼつぼつはすでに手遅れ。辞めろと言われた時には、死んだも同然」

 牧師の出処進退について先輩から聞いた言葉です。その時は他人事のように思っていましたが、「ぼつぼつ辞め時か」と考え始めたころに読んだ『動詞的人生』(岩波書店)というエッセイ集に上野千鶴子さんの「峠を越す」という一文がありました。

 峠は英語ではピークですが、同時に頂点、最高点、絶好調という意味もあります。ピークといえば、誰でも人生でピークと呼べる瞬間があります。それが人々から評価されるかどうかは別として、私たちの人生にはどこかでピークに達する時があるのです。しかし、山の頂上に着いた時から下山が始まるように、人生もピークに達した瞬間から下降が始まります。「峠を越す」とは、ピークを過ぎて下り坂を降り始めるという意味で、英語では〝I am Peaked〟というそうです。

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 牧師としての下り坂を感じ始めた十数年前、ヨルダンを旅行しモーセが山の山頂から約束の地カナンを見渡したとされる場所に立ったことがあります。40年間の苦難に満ちた荒れ野の彷徨が終わり、あとはヨルダン川を渡るだけという人生のピークに達した時、神はモーセに「私はあなたの目に見せるが、あなたはそこに渡って行くことはできない」(申命記34:4)と、約束の地に渡ることを禁じられたのでした。モーセはそれを聞いて、独り山を下りていきます。その後のモーセについて聖書は「主はベト・ペオルの向かい側にあるモアブの地の谷に彼を葬られた。しかし、今日に至るまで、誰も彼の葬られた場所を知らない」(同34:6)としか語りません。しかし、モーセの死は孤独ではありません。「陰府に身を横たえようとも/あなたはそこにおられ」(詩編139:8)ることを知ったはずです。

 その日、山頂から見たエルサレムの町は遠くに霞んで見えていました。モーセも同じ光景を見ていたのでしょうか。山を下りつつ自分の人生の最期に思いを馳せていました。

 「下へはくだるものだ。しかし、下へくだり、もっと下へくだりきるとき、それはもはやくだるのではなく、のぼることなのだ。そのくだりきったところにイエス・キリストがおられるからだ。十字架のイエスのところに上ることができるのだ。歌をうたいながら……」(中森幾之進『下へのぼる歌』日本キリスト教団出版局)

 80歳を過ぎ、峠をとっくに越えて人生の長い下り坂をヨロヨロ、ヘロヘロしながらくだっています。しかし、下り坂を下り切ったそのところにイエス・キリストがおられることを味わわされている日々でもあります。

 かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。

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