【夕暮れに、なお光あり】 自分らしく 島 しづ子 2021年11月21日

 最近は見なくなったが、数年前まで日曜日の朝、礼拝のための週報ができていなかったという夢や、礼拝を忘れていて誰かに呼びに来られた夢、メッセージ原稿ができていなくて講壇で立ち往生した夢などを見た。それが夢だと気づくたび、自分がそれらにとらわれているのだと思った。今でもまだとらわれていたものがあるなあ、と思うことがある。他の人から非難されないように、キリスト者らしく、年齢相応に、リーダーらしく……。自由奔放に生きていると思われていたかもしれないが、これでもそれなりに他者からの評価を気にして遠慮してきたのだ。

 沖縄に来てからその枠を少しずつ外している。必然性もあったが、船に乗り、操船を覚え、カヌーを覚え、シュノーケルを楽しむようになった。マリンショップでシュノーケルを習うには60歳までという年齢制限があったが、親切な船長仲間が73歳の私にシュノーケルを教えてくれた。楽しくて仕方がない。

 なぜ、今ごろになってそこまで挑戦してしまうのか考えてみた。友人、知人の訃報や、心身の衰えも感じるたびに、自分の終末を思わないではいられない。毎日「今日1日、お守りください」と祈りながら生活しているが、これまでしてきた祈りとも切実さが違う。今しているすべてのことが、いずれできなくなるということも感じている。だからこそ、もう人からの評価を気にしないで生きたいと思うのだ。以前は心のどこかで、年を重ねたら、年を重ねた者の生き方、モデルがあるように思い込んでいた。しかし今では、「年齢相応の生き方」というのは幻想だと思っている。一度だけの人生なのだから、可能なうちは自分がいいと思うように生きたい。私はそれが許される環境に置かれたことを、神様からのプレゼントのように感じている。

 教会の任務も果たしながら、週2回は辺野古に通い、海の仲間と一緒に海の上で半日以上過ごす。帰宅したらくたくただが、その日1日を振り返りながら、平和が脅かされている状況の中でどこかに光はないかと思いめぐらす。誰かに強要されたわけではなくマイペースに1週間の予定をこなす日々は楽しい。年を取ったからといって、「年寄りの生活」(そんなのあるのかな?)をするのではなくて、自分の選んだ1日1日を過ごしたいと思う。もう、お仕着せの生き方は止めて、神様からいただいた日々を大事に過ごそうではないか。

 「味わい、見よ、主の恵み深さを」(詩編34:9)

 しま・しづこ 1948年長野県生まれ。農村伝道神学校卒業。2009年度愛知県弁護士会人権賞受賞。日本基督教団うふざと伝道所牧師。著書に『あたたかいまなざし――イエスに出会った女性達』『イエスのまなざし――福音は地の果てまで』『尊敬のまなざし』(いずれも燦葉出版社)。

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