私たちは今、黙示録の世界を生きている? 2021年12月2日

 毎年この時期、礼拝での聖書朗読は世界の終わりと最後の審判について終末論的なトーンで語られる。その朗読は、1年の終わりと新しい年の始まりであるアドベントに近づくにつれてよく見られるものだ。「レリジョン・ニュース・サービス」の記事から紹介する。

 朗読はしばしば、人々を脅して罪を悔い改めさせるために使われることもある。おそらく、本当の意味での悔い改めというよりは、地獄の火を恐れてのことだろうが。しかし、一部ではこのような脅しの戦術は好まれなくなっている。新しい戦略は、人々に恐怖を抱かせて罪から遠ざけるのではなく、キリストと彼らの愛と模範によって美徳に引き寄せることだ。

 私はこの引き寄せ戦略を好むが、誰かが他人を傷つけるのを止める必要がある場合は、彼らを怖がらせることもやぶさかではない。しかし、世界の終わりを予言するこれらの聖句をどう取り扱えばいいのだろうか。

 黙示録記者は、私たちに伝える重要なものを持っている。彼らは創造と歴史の両方に神の主権を示すために、宇宙規模で詩的な象徴で私たちに語る。彼らは私たちに死、戦争、疫病、世界の終わりのような地球を揺るがす災害に立ち向かうことを余儀なくさせる。

 原理主義者の中には、終末への手がかりを求めて、これらの聖句を執拗に研究する人もいる。キリスト教が創始されて以来、どの時代にも、自分たちの時代に終末が来ると信じ込んでいる人々がいた。彼らは、「日や時間については、天の御使いたちも、御子も知らず、父だけが知っています」(マタイ24:36)というイエスの勧めを無視している。

 黙示録の作者は、私たちに重要なことを伝えようとしている。彼らは詩的なシンボルを使って宇宙規模で語りかけ、創造と歴史の両方に対する神の主権を示す。そして、死、戦争、疫病、世界の終わりなど、地球を揺るがす災害に直面させる。もし黙示録記者が現代に生きていたら、間違いなく核戦争、地球温暖化、氷冠の融解、小惑星の落下、パンデミックなどのイメージを描いているだろう。

 これらの作家たちは、神が私たちの心の中だけでなく、歴史の中で働かれることを思い出させてくれる。私たちの個人的な痛みだけでなく、地政学的な危機についても気にかけてくださる。神は私たちの死にも、世界の死にも立ち会ってくださる。後者は私たち自身の手ですぐに起こるのか、数百万年後に太陽が新星になる際に起こるのかは別として。これらすべては神の業である。

 現代のキリスト教徒は、再臨を楽観的にとらえる人々と、悲観的にとらえる人々に分かれる傾向がある。イエズス会の古生物学者であるテイヤール・ド・シャルダン氏は楽観主義者だった。彼は、世界は宇宙のキリストに向かって進化していると信じていた。私たちがより正義と愛を持つようになれば、主のために道を整えることになる。私たちは神の国を建設する、と。

 悲観主義者は、私たちが戦争や環境破壊によって世界をひどく荒廃させ、主が私たちを救うために来なければならなくなると考えている。主が来られるまでは、罪が勝利する。私たちは自分自身を救うことができない。心の中では楽観主義者でありたいと思っているが、頭の中では悲観主義者なのだ。

 キリスト教徒として、私たちはキリストの再来を期待して生きているが、キリストがいつ来られるのかは知る由もない。そのため、私たちは正義と愛の行為を通して、自分自身と世界をキリストの再来に備えるよう努める。私たちは失敗するかもしれないと分かっていながら、これを行う。

 COP26気候会議が終わったばかりだが、聖書に書かれている終末の記述を地球温暖化と結び付けずに聞くことは困難である。科学者たちは、もし私たちが温暖化を抑制できなければ、終末論的な惨事が起こると警告している。彼らの予測は、私たちが台無しにしているから救わなければならないという悲観的な終末論を裏付けるものだ。

 黙示録記者は、快適な生活に安住する人々には警告の言葉を、苦しんでいる人々には慰めの言葉を語る。「目を覚ませ。彼が来ている!」と言う一方で、「希望を持て。あなたの救いは目の前にある!」と語る。しかし、私たちには、今こそキリストが救いに来てくれる時であるという保証はない。腰を据えて救ってくれるのを待つことはできない。それは僭越の罪だ。 そして、もし私たち自身が、罪深い地球の破壊のために、終末の時に近いものをもたらすのであれば、キリストの裁きを受けることになる。

Image by Stefan Keller from Pixabay

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