【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】 牧師に敬意を払うべき? 森 真由美

Q.牧師の悪口を吹聴する教会員がいて困っています。牧師も人間ですから弱さはありますが、み言葉の取り次ぎ者として敬意を払うべきだと思いませんか。(50代・女性)

 確かに「彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい」(テサロニケの信徒への手紙一5章13節)とあります。一方、牧師は「主にあって」指導し訓戒する人であることが求められています。「主にあって職務を遂行している人ならば」という限定付きの言及であり、その立場や肩書ゆえに尊敬しなさいとは言っていないとも読み取れます。偶像的な立ち位置も、律法的な上下関係も愛の神さまは望んでいません。

 私は、2種類の壊れかけた関係を見てきました。一つは「牧師が主を見ていない」という批判、もう一つは平たく言うと「私をあまり顧みてくれない」という不満でした。牧師が主を見ていないのが事実だとしたら、教会は危機的状況にありますし対処が必要でしょう。信徒の悪口が悪意に満ちたものなら正さなければならないでしょう。しかしここで何より重要なのは、それぞれが愛するというスタンスに立つことを選ぶか否かです。

 牧師の信仰に疑念を持つような方は、頭の良い熱心な信仰者で自分の状況判断が正しいと考えます。仮に見立てが正しかったとしても、そこに愛が伴わない時に、人と人とを別とうとするサタンの攻撃にさらされます。そしてサタンが関係に介入すると両者の平和は奪われ、牧師の傷つき方も悪口を言う方の不健康度も霊的に深刻なものになっていきます。

 信仰的批判も個人的不満も、実は同じ心理が働いています。「牧師は○○でなければならない」という思いなのですが、そのもとのところに牧師へのある種の偶像視が存在しているのです。さらにその背景をたどっていくと、自分自身の親子関係が影響しているかもしれません。未解決の悲しみや怒りが一番受け止めてほしい牧師に向かい、歪んだ形で現れてしまうのです。修復が難しくなる前に、悪口の下に流れる信徒の思いの原形を汲み取っていけたらと思います。きっとあなたの愛と涙の祈りこそが、両者を「完全に結ぶ帯」(コロサイの信徒への手紙3章14節)の一端となっていくことでしょう。

*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。

 もり・まゆみ 臨床心理士。大学で聖書神学を学んだ後、英国留学、私立中高聖書教員等を経て臨床心理学を学ぶ。これまで主に教育分野でカウンセラーとしての経験を積む。東京神学大学講師、スクールカウンセラー。クリスチャン・メンタルケアのあり様を模索している。

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