【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】 なぜ十字架がシンボル? 山下智子

Q.イエスを磔にした忌まわしい十字架を、キリスト教のシンボルにしているのはなぜですか?(10代・女性)

 不思議に思うのも当然です。以前、『パッション』というイエスさまの受難を詳細に描いた映画を見ました。生きた人間の手足を釘で打ち付ける十字架刑は、最も大きな苦痛を最も長く味あわせる、最も残酷な死刑の方法といいますが、本当にそうだと思いました。しかも、イエス様は十字架にかけられる前にも、血や肉が飛び散るほど背中を激しく鞭打たれ、痛めつけられていました。あまりの悲惨さに見ていられませんでした……。

 ところが信じられないことに、この究極の苦しみの中でイエス様の愛はさらに輝きを増しました。何しろ、自分を十字架につけようとする敵に対して「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と罪の赦しを祈られ、また隣の十字架にかけられていた犯罪人にかすかな望みを託されると、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」とはっきり救いを約束されたのですから(ルカによる福音書23章43節)。

 イエス様の様子を間近で見ていた百人隊長は、思わず「まことに、この人は神の子だった」とつぶやかずにはいられませんでした(マルコによる福音書15章39節)。そうですよね。イエス様がただの人間ならば、これほどつらい状況の中で周囲を思いやる余裕などなかったはずです。

 つまり十字架を見る時に、私たちはイエス様が私たちの元に遣わされた神の子であり、どんな時も私たちを愛して罪の赦し、救いを約束してくださることを思い起こすことができます。だからキリスト教では、十字架を大切なシンボルにしてきたのですね。

 ところで、十字架は縦横2本の棒からなります。このことは十字架にかけられたイエス様の愛の生涯と教えが、天上の神さまと地上の私たち(縦の関係)はもちろん、私たち同士(横の関係)を愛の絆で結びつけてくださることをも表しているようです。そして、キリスト教がキリスト教であるためには、神さまを信じることと、隣人を愛することの両方が、バランスよく存在しなくてはならないことも!

*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。

 やました・ともこ 福島県生まれ。同志社大学大学院神学研究科博士課程(前期)修了、サンフランシスコ神学校留学。日本基督教団弓町本郷教会伝道師、日本基督教団会津若松教会を経て、2008~17年、新島学園短期大学宗教主任・准教授。2018年より同志社女子大学宗教主任・准教授。著書に『こひつじたちのあいうえお』(日本キリスト教団出版局)、『新島八重ものがたり』(日本キリスト教団出版局)、編著書に『群馬のキリスト者たち』(聖公会出版)など。

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