【映画評】 瓦礫のうえで 『GAGARINE/ガガーリン』『選ばなかったみち』『焼け跡クロニクル』 2022年2月25日

 『GAGARINE/ガガーリン』の舞台は、パリ郊外に実在した公営団地シテ・ガガーリン(cité Gagarine)だ。ソ連の宇宙飛行士ガガーリンの名を冠したこの1963年造の老朽建物に暮らすアフリカ系の少年ユーリは、ある日母の書き置きをみつけ、家族に置き去られたことを知る。解体手続きの進む現実と、少年の育む宇宙への夢との混濁、ロマ少女との淡い恋。宇宙物をイメージさせるタイトルにもかかわらず廃墟同然の老朽団地を主舞台とするギャップの醸す、リアリティが浮き立つような拠りどころのなさが、幾度も挟み込まれる無重力描写によって倍加される。

 20世紀後半フランス中間層の勃興とともに理想の生活を体現する場として登場したパリ郊外の団地群は、その老朽化と移民社会化を受け低所得者向け住宅(HLM=habitation à loyer modéré)への転用が進んだ。多民族・多言語が混淆し、経済格差やマイノリティ、薬物の氾濫や若年世代の非行など社会問題が凝縮する郊外団地群を舞台とする映画は多数撮られ、“パリ郊外映画(Le cinéma de banlieue)”と呼ばれる一大ジャンルを形成するに至った。宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリン本人の団地開幕式典への訪問記録映像に始まる本作は、演出の巧緻と批評性の高さとを両立させたとまずは言える。また終盤の無重力描写などは、少年の夢の奥向こうでダイナマイトによる団地爆破のメタファーを響かせるが、同時にそれはジャンルそのものの“終わりの始まり”をも仄めかす。家こそ人の輪郭なのだと示す本作はしたがって水準と内容の両面において、住宅/廃墟映画の傑作にして“パリ郊外映画”の画期作となっている。

 建物がそうであるように、土地もまた人生とのあいだに“地”と“図”の関係性を育むため、ある土地を離れ、あるいは強制的に引き剥がされる経験は断絶の痛みをもたらし得る。それらは文字通りに、身を切られる経験となる。

 ここ数年の懐深さを増した演技によりハリウッドきってのミューズと化したエル・ファニングと、スペインの名優ハビエル・バルデムとの競演が魅せる映画『選ばなかったみち』。若年性認知症(前頭側頭型認知症)を患う移民作家の男は、初恋の相手と出身地メキシコに留まる“if”と、スランプに陥って逗留したギリシャでの“if”とを同時に生きる。彼が生きるもう一つの世界すなわち米国ニューヨークで暮らす現実を支える娘が直面する、コミュニケーションと介護の困難。父への共感を経た娘の視点によるラストの描写は衝撃的だ。

 作家の変転する人生の先に待つ、身心が衰えゆくニューヨークでの生活。これを演じるハビエル・バルデムの姿には、キューバ革命により亡命生活を余儀なくされニューヨークで自死した作家レイナルド・アレナスを描く初主演作『夜になるまえに』(2000年)が否応なく想起される。いまや現代スペイン語圏を代表する俳優として世界的巨匠たちの現場を渡り歩く、カナリア諸島出身のハビエル・バルデム自身が描く道行きにもそれは重なる。

 映画の後半で、娘が眠りに落ちるあいだに父が屋外へ歩み出てしまう場面がある。裸足に寝間着姿で夜の街をさまよい歩く男の瞳はしかし、余人には窺い知れない何かを見透かしているようでもある。アスファルトの路面を素足で歩むその超然とした姿はさながらマタイ福音書における、ゴルゴダの丘へと歩むイエスのそれを想わせる。認知症が引き起こす時間軸における記憶の混乱は、空間における身体性の喪失にも近い。その断片に超越性さえまとわせる佇まいはまさに、静々と歩く寡黙な男を演じた『ノーカントリー』(2007年)で映画史に残る悪役として世界に名を馳せたハビエル・バルデムならではの凄みを放つ。

 『焼け跡クロニクル』は、家を全焼で失った家族による、生活再起の記録だ。フィルムの残骸から新たな一篇を編みだす映画監督・原將人の営みと、焼け跡から新たに歩みだす家族の足どりとの、しなやかな同軌。原將人は、1968年の短篇『おかしさに彩られた悲しみのバラード』で高校生にして“天才映画少年”と騒がれ、以降『初国知所之天皇』『20世紀ノスタルジア』などの履歴をもつベテラン監督だ。よって山田洋次や瀬々敬久、四方田犬彦ら原と時代を共にし、あるいは影響を受けた著名監督・批評家らによる“全身に火傷を負った伝説的監督の挑戦”を称える文言が本作の宣伝口上には並ぶ。ところが実際に観てみると、子どもたちを想う妻・原まおりの息遣いこそが真の主役となっており、こうした複層性をとる構成の巧みさに、本作の精髄がみてとれる。

 “残骸になったとしてもフィルムは、映画作家としての原の肉体の一部なのだ”

 冒頭のナレーションで原まおりはこう語る。それは家族の肉体の延長としての家の残骸を同時に暗示し、黒灰色の焼け跡に始まる映像はやがて、子どもらの弾けるような活力に圧されゆく。

 『GAGARINE/ガガーリン』の少年は、いかなる条件を示されようと他の住民のようには団地を離れられない。なぜなら自分を見捨てた母親が、いつ迎えにきてくれるかもしれないから。そこ以外に自分はないから。爆破の準備が整った団地内に少年がまだ残ると最後まで信じるロマ少女の視線が、この孤独を優しく抱く。
 
 『選ばなかったみち』で夜の街へ歩み出た認知症の男は、やがてタクシー運転手の溜まり場へ迷い込む。南アジア系移民の運転手たちのなかひとりの青年が進みでて男を庇い、泥に汚れた男の足を湯で洗う。先述のマタイによる福音書の喩えに倣えば、この場面はヨハネ福音書における最後の晩餐を想起させる。「家に帰すべきだ」と邪険に扱う運転手のひとりに対し、青年は英語ではなく母国語(おそらくウルドゥー語)で「でも今はここにいる。俺たちの助けが必要だ」と語る。ここでイエスの役柄は遷移する。異邦の地の昏がりにあって、異邦者同士が助けあい、救いあう。

©2022『焼け跡クロニクル』プロジェクト

 リナ・クードリ扮するロマ少女の視線、エル・ファニング演じる娘の視線、原まおりの母の視線。『焼け跡クロニクル』においては、これらに子供らのカメラを見あげる目線がやがて加わる。外部化された原將人の視覚記憶そのものであるフィルムの残骸に基づく構成の複層性は、こうして視点の複数性へと転じる。いつなんどきも、喪失は再生の契機でもある。焼けただれたフィルムの現前によってこそ可能となった多声性。そういえば『選ばなかったみち』の原題“The Roads Not Taken”において、「みち」は予め複数形“Roads”を宿していた。壊音。ビル爆破の。記憶の。焼失の。壊されることで、ようやく獲得される己というものがある。道はつねに開かれている。いかなる喪失のあとであれ。

(ライター 藤本徹)

『GAGARINE/ガガーリン』 “Gagarine”
公式サイト:http://gagarine-japan.com/
2022年2月25日(金)より、新宿ピカデリー、HTC有楽町ほか全国ロードショー。

『選ばなかったみち』 “The Roads Not Taken”
公式サイト:https://cinerack.jp/michi/
2022年2月25日(金)より、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開。

『焼け跡クロニクル』
公式サイト:https://www.yakeato-movie.com/
2022年2月25日(金)より、シネスイッチ銀座 ほか全国順次ロードショー。

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【本稿筆者による言及作品別ツイート】(言及順)

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