【宗教リテラシー向上委員会】 この世界は自分の考える物語を超えている 向井真人 2022年6月11日

 仏教の基本概念のひとつ、一切皆苦(いっさいかいく)。「『すべての行(もの)はくるしみなり』と、かくのごとく智慧もて知らば、彼はそのくるしみを厭うべし。これ清浄に入るの道なり」(友松円諦訳『法句経』278)

 苦しみ(サンスクリット語で「ドゥッカ」)とは、思うようにならない、という意義を含んでいる。明日の天気、昨日の事故、今の自分の思いでさえままならない。それが世界の真実だと一切皆苦は示す。世界の真実を、目の前の現象をあるがままに認識する力が智慧である。その智慧によって不安や苦悩といった現実を冷酷に見定めることができるだろうし、自分の思うようにならない苦しみそのものや原因を理解できるだろう。

 残念ながら見定める眼がくもっているがために、私の周りには不安や苦悩が満ちているように見えている。自分の思い通りにならないのが道理なのに、思った通りになったらいいなと考えてしまう。その苦しみの中にいて、どうにも逃げ出せなくて、もがいて、悲しい選択をしてしまう時がある。最悪の事態とはどうにか避けたいものだが、苦しみへの対処方法でよくないものが二つあると私は考える。

 一つ、「これさえすればなんとかなる。これをするしかない」という思いにとらわれないようにしたい。人生は選択と後悔の連続である。人生という道を歩む中での選択肢とは不思議と多くないように見え、目の前に実例があればその選択肢ばかりが意識され、結果としてその選択肢を選ぶ確率は上がるように思う。

 一つ、「この人が言っているから。この書物に書かれているから」という分かりやすさにとらわれないようにしたい。この世は複雑で理解できないことばかりなのに、自分の理解できる範囲内で捉えることしかできない。さらに、その範囲内にすべてを納めたいと思ってしまう、そんなどうしようもない存在がこの私なのだ。

 人と人との営みの中にいてもいなくとも、何ごとも自分の思い通りにはならない事実を世間や社会が突きつけてくる。そしてさらに世間や社会よりももっと広い視点で、そもそも自分の考えの範囲内では物事は納まらないという事実を教えてくれるのが、宗教だろう。

 私が初めて聖書を読んだ時にまず感じたのが、聖書の物語性である。聖人の手紙や物語が語ることによって、語りきれない何ものかを示している。私たちが人生という道を歩んでいるこの世界とは、自分の考えの範囲内にはとうてい納まらないということを、聖書は教えてくれるのだ。

 仏教の経とは基本的にお釈迦さまの言葉を連ねたものであり、私はこのように教えを聞いた、という物語性を持っている。本当に自分の人生を生きようと臨む時、自分という枠を外すことを、経は、一切皆苦は教えてくれる。この事実を身にしみて、色や香りがつくほどに自身の心身をひたすのが行いである。法話や説法を聞く、坐禅や念仏礼拝、祈るなど行いにはさまざまあるが、その内容とは地味で地に足のついた歩みである。

 この世界は、自分の考える物語を超えている。自分の悲しみを、喜びを、怒りを超えている。この事実を自分にとんと分からせるには、地に足をつけた行為が一番とは不思議だ。しかし、実際に有効なのだ。某大統領をなんとかすればいい? 新聞に書いてあるから? 坐禅すればなんとかなる? 経に書かれているから? 複雑で自分の理解にとうてい納まらない今世という問いを私たちは皆平等に与えられている。その問いを閉じないでいなさい、と宗教は勧めているように私は思うのだ。

向井真人(臨済宗陽岳寺副住職)
 むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

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