【夕暮れに、なお光あり】 「艦砲射撃の生き残り」の人々の祈り 島しづ子 2022年8月11日

 1945年4月1日、夜明け前の午前5時半。読谷・渡具知海岸に猛烈な艦砲射撃が開始された。約20分間で12センチ砲以上が4万4825発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2500発が撃ち込まれ、午前8時半、ついに米軍が上陸。そこに「艦砲ぬ喰ぇー残さー」歌碑がある。それには、「うんじゅん我んにん/汝(いや)ん我んにん/艦砲ね喰ぇー残さー(あなたもわたしも/おまえもおれも/艦砲の喰い残し)」(比嘉恒敏作詞・作曲)の歌が全文記されている。

 沖縄では1991年、復帰20周年を迎える直前「平和で豊かな沖縄県づくり」を目指した大田昌秀琉球大学教授が知事に当選した。大田知事を中心に、1995年世界へ平和を発信する「平和の礎」を建設。この礎には沖縄県民のみならず、植民地からの人々、諸外国の兵士の名前が刻まれている。その数24万人余である。刻まれなかった名前もある。

 今年、慰霊の日(6月23日)直前にある新しい平和運動が始まった。「平和の礎」に刻まれた全戦没者の名前を読み上げる、という試みだった。6月12日から23日まで毎日21時間(昼も夜も)読み継がれて終わった。1人30分で500人の名前を読み上げてもなかなか終わらない戦没者のお名前。この試みは有志が呼びかけ、1500人の参加者がそれぞれの場所で、Zoomの前で担当した方々の名前を読み上げた。

Syohei Arai – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0,https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4534950による

 私は友人から誘われて実行委員になって得難い経験をした。住まいが南城市大里なので、旧大里村の戦没者の名前を担当した。その名簿には生年月日、誕生地、死んだ日と場所が記されていた。今の私の生活圏が77年前は激戦地であり、多くの家族が一緒に亡くなったこと、死者の中には一家全滅で名前が知られていない方々もいた。0歳、1歳からの幼児。また兵士は20歳前半といった若い人々。死地を見るとあの海、あの村と分かった。今までは沖縄戦での死者は4人に1人と言ってきたが、村によっては3人に1人が亡くなっている。生き残った人々やその子孫は全員が戦没者遺族なのである。

 比嘉さんの歌の5番の意味はこうだ。「わが親を奪ったあの戦争 わが島を破壊したあの艦砲 たとえ生まれ変わっても 忘られようか 誰があのような戦争を強いたのかああ恨んでも悔やんでもあきらめきれない このことは子孫末代まで遺言してしっかり伝えなければならない」(https://bit.ly/3d4GzFl

 「平和の礎」名前読み上げプロジェクトは地味な働きによって広げられた。マスコミはこのことを通して知られざる物語を掘り起こして報道してくれた。新しい運動を始めた友人たちに希望を与えられた。死者の生きたかったという声が胸の内に響いている。

 「主は虐げられているすべての者のために/正義と公正を行う」(詩編103編6節)

 しま・しづこ 1948年長野県生まれ。農村伝道神学校卒業。2009年度愛知県弁護士会人権賞受賞。日本基督教団うふざと伝道所牧師。著書に『あたたかいまなざし――イエスに出会った女性達』『イエスのまなざし――福音は地の果てまで』『尊敬のまなざし』(いずれも燦葉出版社)。

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