追悼特集 加賀乙彦さんインタビュー 死刑囚との出会い 常に持ち歩いた2冊の聖書 【ハタから見ていたキリスト教】

 雑誌「Ministry」の連載「ハタから見た(見ていた)キリスト教」で2012年春号にご登場いただいた加賀乙彦さんが、1月12日に亡くなった。故人を偲んでインタビューの抜粋を掲載する。

 東日本大震災から1年。地震と津波、福島原発の事故で、人間は「死」の問題に直面せざるを得なくなった。精神科医で作家の加賀乙彦さんは今年1月、『科学と宗教と死』(集英社新書)を出版した。戦時中、多くの「死」を目の当たりにし、戦後も死刑囚と接する中で「死」と向き合ってきた。カトリック信徒でもあり、同書では宗教には「科学を支える叡智がある」と主張する加賀さんに、信仰を持つようになった経緯、教会に対する思い、そしてキリスト者への期待を聞いた。

キリスト教を楽しんだ
2年半のフランス留学

――カトリックの信仰を持つようになった経緯を教えてください。

 僕は28歳から30歳まで、医学の勉強のためフランスに留学していました。パリにはたくさんカテドラルや小さな教会堂があって、たまたまパイプオルガンが鳴っていれば中に入って聴き、神父がミサをやっていれば拝見してなるほどな、と。パリのノートルダム大聖堂とシャルトルのカテドラルは日曜日によく行きました。きれいなんですね。100人、200人という子どもたちが真っ白な衣服を着て聖歌を歌う。特にシャルトルのステンドグラスは真っ青で、「シャルトルの青」と言われていますが、朝の光を浴びると非常に美しい。

 ルーヴル美術館に行ってみますと、ルネサンス以前の中世の絵画はすべてキリスト教の絵画です。殉教もありますし、聖書物語もあります。パリに行って最初にやったのは、聖書を読むこと。だって、何を描いているのかわからないと面白くないでしょ。ちょうどロマネスク彫刻の展覧会をやっていて、かわいらしい彫刻がいっぱい飾られていた。僕はパリ中のゴシックの教会を歩きながら、同時にロマネスク教会を見に行きました。

 ロマネスク教会の柱頭彫刻は本当に愛らしい。そして聖書をよく読んでいる人だったら、どのシーンだとわかる。たとえば、木に髪の毛でぶら下がっているのはアブサロムでしょう。人間がつり下がっているようなかわいい彫刻になっていて。その写真をいくつも撮ってきたけど、そういう具体的な存在物を通して僕はキリスト教を少しずつ知るようになったんです。

 2年半くらいフランスに留学していましたが、何をやっていたかというと、キリスト教を楽しんでいた、という感じでしたね。日本の仏画とは全然違う何かを表現しているということがわかったので、興味を持った。ただ、日本の仏教や神道だってなかなかたいしたものなので、キリスト者になるというところまでは決心しなかった。

 でも日本に帰ってきて、今度は聖書を何度も読み直してみますと、すばらしい本だということがよくわかる。特に旧約の中にあるいろいろな話が非常に文学的に優れているし、もちろん信仰が支柱にはなっているんだけど、小説としても面白いし、何度も読んでいるうちに、キリスト教にずいぶん惹かれていきました。

――仏教や神道にも関心を?

 僕は宮沢賢治が好きなものですから、彼がなぜ法華経に夢中になったかに関心があって、読んでみてびっくりしましたね。あんなにすばらしい宗教書が日本にあるんだなと。彼の童話を読んでいると、法華経との関連がものすごく強いですね。『グスコーブドリの伝記』は、自分の命をもって人を救うという話で、これも法華経の中にあるんですよ。その辺はキリスト教に近い。それで、両方の宗教に関心を持ったんですね。

 それから日本神話、特に神道のもとになった神話にも関心があります。僕は橿原神宮とか伊勢神宮とかに行きましたが、建物が簡素で美しい。五十鈴川なんて実に清浄な感じがする。それも好きなんです。仏教も神道もキリスト教も、この三つの宗教は僕の心の中に何か染み渡るようなものを持っていました。

神父と連日問答したら
だいたい疑問が解けた

 気持ちがだんだんキリスト教に傾いていったのは、やはり39歳の時に上智大学文学部の教授に就いてからです。49歳までの10年間、上智大学で教える間に、大勢の神父と友だちになりました。宗教の話をするのは数人でしたけど、昼食の時とか教授会とかで、そういう話をする。

 なかには昼飯に必ずワインを飲む神父もいて、真っ赤になっていた。「どうするんですか先生」と聞いたら、「僕は人見知りをするので、酔っ払っていないと授業ができないんだ」と言う(笑)。いろいろ面白かったですな。

 イタリアに行くようになったのは、上智大学へ行ってからで、特にベネチアから北の方の聖堂をずいぶん見ました。僕の知識は文学だけじゃなくて、音楽とか建築とか街とか、そういうものから教えてもらいました。

 音楽では、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなど、宗教的な音楽が大好きです。中でも最高の音楽は、バッハの「マタイ受難曲」だと思うんです。憂うつになって死にたくなる時って人間ってあるでしょ? その時「マタイ受難曲」を聴くと元気になる。あれは不思議ですね。

 そういう中で、僕とキリスト教との関係はだんだん深くなっていって、ついに洗礼を受けることに決まるんです。

――58歳の時ですね。

 洗礼を受けるっていっても、普通は1年か2年、勉強しなくちゃいけないんですが、僕は聖書をよく読んでいたので、門脇佳吉神父に言ったら、「あなたは4日くらい質問して、その質問が解けたら洗礼を授けるかどうか考えます」と。そして2人で手帳を見たら、2人とも手帳が真っ黒でね。忙しい。それで「じゃあ4日間あなたも空けなさい。僕も4日間同じ時空けるから4日間やろう」と。

 3日目の昼頃までに、だいたいすべての疑問が解けたんですね。それはもう神父も必死だったし、僕も必死だった。女房も一緒にいて、一生懸命質問をしていました。僕も幼稚な質問をずいぶんしたんですね。「天使っていうのは本当にいるのか。天使が腕の他に翼をつけてるっていうのはおかしいじゃないか。解剖学的にあり得ない」って(笑)。そうしたら神父は、「そうだけど、人間の解剖学を知らない画家が最初に描いて、そのためにああいう形ができちゃったんだろう」と。今の画家だったらちょっと恥ずかしくて描けないです。

 それから「悪魔の耳はなぜとんがっているか」とかね。「悪魔っていうのは普通の格好をしているんじゃないですか」と神父が言うんですね。「例えば僕のように」って。「だって神父さんは悪魔じゃないでしょ」「いや、時々悪魔になることがあるな」なんて言って、親切だったが本当に正直な人で(笑)。

死刑囚との出会い
加賀文学の原点

――実際に拘置所や刑務所を訪問して犯罪者の心理を研究されていますね。

 東京拘置所に25歳から28歳まで勤めていたので、特に死刑囚、無期囚になるような重罪犯の人たちを中心に診療していました。僕はむしろ積極的に彼らと話をしたくて、矯正局長の許可を受けた。「死刑囚の中には拘禁ノイローゼの人が非常に多くて看守さんたちが困っている。看守さんたちを助けるためにはまず、どんな病気があって、どういう理由でノイローゼになるのか調べる必要がある」と。

 そうしたらすぐ許可が下りて、日本中の拘置所に行って大勢の死刑囚を診ました。全部で被告を入れると100人くらい診ているんですね。これが20代の時に夢中になった仕事です。フランスに行ってからもフレーヌという大きな刑務所に行って、拘禁反応を起こした人たちの診察や治療もした。

 帰ってきたら日本は60年の安保反対で、大変な騒ぎになっていましたね。それから学園紛争になって滅茶苦茶になっちゃうでしょ。そういう時に僕は正田昭という死刑囚と文通するようになった(編集部注=元証券会社社員の正田昭、1953年に東京・新橋で起きた「バー・メッカ殺人事件」の犯人として逮捕され、63年に死刑が確定した。金融業兼証券外務員の男性が殺され、現金41万円が奪われた事件。正田は獄中でカトリックに入信し、69年に死刑が執行された)。

――正田昭さんは加賀さんにとってどのような存在ですか?

 ものすごく勉強家でカトリックの教義に詳しかったし、聖書の意味なんかを自分に説いてくれたし、そういう形でずいぶん教わったんです。彼が40歳にして死刑執行される。あんなに悲しかったことはなかったな。先生が殺されてしまったような感じ。どうしてこんなもったいないことをするのかなあと思っていました。

 その正田昭と文通している女の人がいて、この文通が人間の心理の深いところ、信仰の深いところまでいっているんですよね。それから、正田昭の母親から彼の獄中記を全部もらって読みました。

 彼はこう書いています。「僕はカンドウ神父様に惹かれてからカンドウ神父様の後を追ってぜひ天国に行きたいと思ったけれども、そんな僕みたいな悪人が天国に行けるはずもないし、そうするとカンドウ神父様と一緒になるという希望もない」という悩みですね。
その中で時々「信仰を失ってしまったのではないか」というようなことも書いてある。

 三つの違った顔――僕に対する神父的な顔、女の人に対するもっと開いた感じの顔、もう一つは人には言えない自分自身の顔ですね。まさかそれを誰かが読むということは考えずに書いたもの。そういうものを読むと、人間というのは実に複雑で一筋縄ではいかないものだと。そこから僕の文学は始まったんです。

携行して読み続ける
大事な2冊の聖書

 正田昭は複雑で、そして40歳で死んだけど、ああいうところにキリスト教の奥深さっていうものがあるんじゃないか。また正田のおかげで聖書を読み直す。その時、一番僕が何度も読み直したのが、フランス語の聖書です。いろんな書き込みがしてあります。これが僕にとって一番大事な本なんですよ。外国に旅行する時はこれを持っていって、ずっと飛行機の中で読む。中国旅行の時これを読んだら、中国人が不思議そうな顔で見ていた(笑)。

 もう一つ大事なのは、正田昭の聖書。正田昭が僕に遺してくれたのかもしれないね。(聖書の書き込みを指して)これは全部、彼が書き込んだもの。彼は実によく読んでいますね。これはプロテスタントの文語訳です。

 僕の場合、日本語の聖書だったら文語訳が大好き。新共同訳はいけませんね。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言うより、「門を叩け、さらば開かれん」と言った方がよっぽどいいじゃないですか。「健やかなる者は医者を要せず」というのもいいね。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく」では、なんとつまらない文章だろう(笑)。

死刑囚・正田昭が遺した聖書(右)

――文学作品を読むにあたって聖書は手放せませんね。

 ドストエフスキーは結局4年間牢獄にいて、その間読めるものは聖書しかなかった。だから聖書は隅から隅まで読んだ。ドストエフスキー博物館に行くとその聖書があって、真っ黒ですね、手あかで。何かで困ってどうしようという時は閉めてバッと開いてそこを読む。そうするとひらめくんだって(笑)。「ドストエフスキーの賭け」って言うんです。それを僕も真似しているんだけど、どうも僕が引くと変な所が出てきちゃって……。ユダなんかが出てきて、こんなつもりじゃなかったのに、と(笑)。

カトリックとプロテスタント
教会一致の時代に望むこと

――洗礼を受けて変化したことはありましたか?

 面白いことに、キリスト教に帰依して洗礼を受けてから、なぜか仏教の本をよく読むようになった。

 神に見られているという感覚が生じたのは洗礼を受けてから。神はすべてご存じだと。何か悪いことをしている時は見られている。夜なんかは夢を見ると毛布の中に潜って、「見ないでください」って(笑)。でも「ちゃんと寝る前のお祈りはしているんだから赦してください」なんて言うことがあるんですけれども。

 宗教というのは楽しいと思うな。宗教が抹香臭いっていう感じになったことはないです。本当に。宗教っていうのは、美しくて楽しいものですね。教会に行くっていうのは、あんなに楽しいことはないな。そこに神の視線が集中的に集まっているっていうかな、そういう感じがして。そうするとお祈りが効くかもしれないっていう。何か困った時は教会に行ってお祈りします。

 教会はないと困るんですよ。皆が集まって、そこでお祈りができて。カトリックは「主の祈り」の後に、お互いに「主の平安」とあいさつをする。時々、「偶像があるじゃないか。マリアの偶像なんかけしからん」ってプロテスタントの人は言う。ところが偶像じゃなくて、あれはロマネスクの時代からずっとそういうものをたくさん使っているんですね。

――カトリックとプロテスタントの違いを意識しますか?

 カトリックもプロテスタントも、戦争協力していますから、だらしがなかったと思います。どちらがいいとも言えない。ザビエルの時代のキリシタン迫害では、殉教した人たちが何万とおります。

 徳川家光のものすごい迫害の時代に、自分の信仰を守って死んでいった多くの人々の姿は尊いし、すばらしいと思いますね。それに比べると、太平洋戦争中のキリスト者は何をやっていたんだ、と思います。その辺のことを僕は正直に小説の中で書いています。

*全文は同シリーズを単行本化した『宗教改革2.0へ ハタから見えるキリスト教の〇と×』(ころから)に収録。

【書評】 『宗教改革2.0へ――ハタから見えるキリスト教の〇と✕』 松谷信司 編著

【訃報】 加賀乙彦さん(作家、精神科医) 2023年1月12日

撮影=山名敏郎

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