【雑誌紹介】 キリスト教と「犠牲のシステム」 『福音と世界』3月号

キリスト教と「犠牲のシステム」

 特集に「キリスト教と犠牲のシステム」を組んだ。冒頭に同志社大学神学部教授の小原克博が、《本稿では犠牲を人類史的な文脈でとらえるとともに、これまでキリスト教における犠牲を批判的に論じてきた哲学者・高橋哲哉の議論を取り上げる》と言う。《高橋のキリスト教に対する問いかけをまとめれば次のようになるだろう》として《伝統的な贖罪論や十字架理解には、イエスの「尊い犠牲」を模範として自己犠牲を促すような「犠牲のシステム」が、ナショナリズムを含む他の歴史的事例と同様、組み込まれているのではないか。さらに端的に言えば、伝統的な贖罪論・十字架理解こそが、「尊い犠牲」を正当化してきた問題の根源ではないか》と言う。

 《しかし、この問いの立て方は神学的には必ずしも正確ではない。むしろ問うべきは、どのような贖罪論において死の美化(殉教の美化を含む)が生じるのか、であろう。イエスの生涯や十字架において再認識すべきは犠牲の再生産ではなく、それを終わらせることである。その文脈を無視し、犠牲(自己犠牲)を正当化する贖罪論は批判されてしかるべきである》と。

 長崎外国語大学外国語学部教授の小西哲郎が「長崎原爆と殉教」の中で、「原子力の平和利用」という思想の普及と国民の核アレルギーの軽減に一役買った被爆者、永井隆の「正体」に触れる。

 永井が1946年に書いた原爆体験記『長崎の鐘』について《タイトルは、もともと『原子時代の開幕――医学者の体験した原子爆弾』であった。永井は、核エネルギーを手にしたことで人類が「原子時代」という新しい時代、すなわち人類が核エネルギーを利用して豊かな生活を送る夢のような時代に入ったと考えていた。……病床から半紙一〇〇〇枚に「平和を」の三文字を記して多くの人々に送ったことから、永井は「平和を」願った人だと言われるが、その意味は「原子力の『平和(利用)を』」に他ならない。事実、永井の作品の随所に「原子力礼讃」は現れている》と。

【本体588円+税】
【新教出版社】

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