【雑誌紹介】 病を担いつつ神と生きること 『信徒の友』9月号

 特集『病と信仰――神はどこにおられるのか』。医師で神奈川・戸塚教会伝道師の黒鳥偉作が言う。

 《病を担うという主題を論じるにあたり、まず述べなければならないことは、現代医学において罪と病との因果関係は明確に否定されているという事実です。また、サタンが病の原因にもなり得ません。その大前提の上で、神と私たちとの関係性を論じたいと思います。

 マタイによる福音書8章には、イエスさまによる数々の癒やしが記されています。その筒所に、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(17節)という文章があります。これはイザヤ書53章4節から引用されたもので、イエスさまがある人物に重ねられています。旧約聖書において苦難のしもべと呼ばれていた人物のことです》

 《そして、新約聖書において傷ついた苦難のしもべはイエスさまと重ねられ、イエスさまによって病が担われたという理解が継承されました》
 
 《イエスさまの病を担う姿は、パウロによって引き継がれていきます。コリントの信徒への手紙二12章において、パウロはあえて自己開示をしています。「わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)。「とげ」が何を指すのか具体的にはわかっていませんが、肉体に激しい痛みを伴うものであったと言われています。パウロが患った何らかの病気と関連するものであったかもしれません。

 「とげ」は肉体の痛みであるばかりか、パウロにとって宣教の妨げであったとも考えられています》
 
 《パウロは神秘体験を重視しませんでしたが、それはイエスさまが病を担ってくださったという奇跡以上の恵みはなかったからではないでしょうか。よって、パウロのとげが与えられているとの自己開示は、先行した神の恵みが最も働く場所はどこにあるのかという根本的な問題に対する重要な告白だと考えられます。病を担っているとのパウロの信仰告白は、自己の弱さに反比例して、治療者であり、病を担ってくださるイエスさまが自己に内在していることを証しします。どんなときであっても神の愛と共に生きていくことは不可能ではないという、パウロの信仰の極みとも考えられます。

 病を担うとは、ただ病気の状態にあることを指しているのではありません。また、今以上の重荷を課されることでもありません。病を担う者の歩みは常に癒やしと救いに向けられており、神と共に能動的に生きるという主体性を回復します。そして、その方向性は他者に向き合い続けるイエスさまにつながります。つまり、病を担うことは使徒的役割が付加されることでもあり、私たち一人一人が現代のパウロとして神の愛を伝える使命が与えられることだと私は考えます》

【本体543円+税】
【日本キリスト教団出版局】

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