【書評】 『影に対して 母をめぐる物語』 遠藤周作

 1996年にこの世を去った作家・遠藤周作の新刊が話題を集めている。

 2020年6月、長崎市遠藤周作文学館が遠藤の未発表小説が発見されたと発表した。原稿用紙の裏に鉛筆で記された草稿2枚と秘書の手で清書された原稿104枚が、遠藤家から寄託された資料約3万点の中から発見されたと明らかにしたのだ。同館は、遠藤の死後、完結した未発表小説が発見されるのは初めてのことであり、執筆時期は1963年3月以降とみられるが、なぜ発表されなかったかは不明としている。

 資料は同館の開館20周年記念企画展で公開された後、作品として同年7月発売の文芸誌「三田文学」夏季号に掲載され、10月に新潮社から同時期に書かれた短編6篇と共に『影に対して 母をめぐる物語』が出版された。

 主人公の勝呂(すぐろ)は、小説家になる夢が挫折しかけている既婚の男。「勝呂」は、本書にも所収された「雑種の犬」や、1986年に発表された「スキャンダル」でも主人公であり、前者では若く売れない小説家、後者では功成り名遂げたキリスト教作家として描かれている。いずれもクリスチャンであり、小説家でもあることから、遠藤の分身と解されている。

 1923年東京巣鴨に生まれた遠藤は、幼少期を大連で過ごし、両親の離婚に伴い、兄と一緒に母親側について神戸に帰国した。ヴァイオリニストであった母の強い影響でカトリック教会に通って洗礼を受け、後年日本の精神風土とキリスト教信仰とをモチーフとした作品で知られるようになる。

 ところが、本作品は自伝的作品でありながら、決定的なところで勝呂の設定は現実の遠藤と異なっている。旧満州大連での幼少期、両親の離婚、日本への帰国、受洗という点は共通しているが、重要なポイントで遠藤は勝呂に自分とは違う生い立ちを与えている。

 また「勝呂」という名前は、遠藤の代表作の一つとされる「海と毒薬」において、勝呂医師として登場する。「海と毒薬」は太平洋戦争中に行われた米軍捕虜の臨床実験(九州大学生体解剖事件)を題材としたものだが、それを行う医師の名に遠藤は自分の分身と同じ名前を付けているわけである。

 「海と毒薬」の続編とされる「悲しみの歌」の主人公も勝呂医師で、この作品で勝呂医師は患者に安楽死を施している。「海と毒薬」や「悲しみの歌」は、「神なき日本人の罪意識」をテーマとしていると評されるが、その主人公と同名の人物が遠藤の分身であるということになるのだ。それゆえ「勝呂」の生い立ちと心理を詳らかに描いた本作品「影に対して」は、遠藤文学の鍵となると考えられる。

 失われていたピースをはめこんだら、パズルの絵がこれまでと変わって見えることがある。遠藤文学に新たな視点を与えるものとして、本作品が発見された意味は大きい。没後24年にして遠藤から届いた贈り物を、ひもといてみてはどうだろうか。

【本体1,600円+税】
【新潮社】978-4103035244

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