【書評】 『旅ごころはリュートに乗って――歌がみちびく中世巡礼』 星野博美

 6年前に上梓され、好評を得た星野博美著『みんな彗星を見ていた――私的キリシタン探訪記』の続編とも言える新刊が出版された。平凡社の隔月総合文芸誌「こころ」に連載された内容に加筆修正してまとめたもので、古楽器リュートに魅せられた著者が想像力を駆使して時空を超えた旅を繰り広げる。

 ノンフィクション作家として数々の受賞歴を誇る著者が、前作から引き継いでいるテーマは「キリシタン」。本書でも「キリシタン」への関心の高さと慧眼が遺憾なく発揮されている。著者は2013年春から1年間、慶応大学で浅見雅一教授のキリシタン史の授業を受け、授業にはもちろん授業後の雑談からも大きな刺激を受けたという。

 全20章で構成された本書のうち、前半5章はリュートとそれを演奏した歴史上の人物に割かれている。天正遣欧使節が秀吉の前でリュートを演奏したのはよく知られているが、ルターやヘンリー8世までが奏でたというのは興味深い。

 中盤では、聖母マリアを賛美する歌集「カンティガ」(頌歌集)の歌詞を自ら翻訳しながら、当時の世界情勢と宗教的傾向を推察している。「カンティガ」からうかがえる奇跡願望や反ユダヤ主義など、いわば不都合な点まで鋭く読み取っているところが、ノンフィクション作家の面目躍如だ。

 最終章にかけての三章は専らキリシタンについて書かれている。特に殉教とその心性に関する考察には、それまでにない熱量が感じられる。やはり著者の一番の関心はキリシタンに向かっていることが分かるが、だからといってキリシタンや殉教を美化したり称えたりする筆致ではない。

 ノンフィクション作家としての冷静な目で殉教伝を読み込み、ローマ帝国下の初期教会の受難とキリシタン時代のそれとの間に、定型めいた類似性を見出す。1~3世紀の初期教会と16世紀の日本の教会になぜそのような一致が見られることになったのかという疑問から発し、「殉教伝のマトリョーシカ化」「殉教のたしなみ」があったのではないかと考察する。

 著者は資料を元に考えるリアリストであると同時に、教皇フランシスコ1世の長崎巡礼に参加して涙を流すような、感性の人でもある。西坂殉教地で教皇が語るメッセージを聴きながら、自分はキリスト教徒ではないが、この地で4世紀前にたおれていったキリシタンたちのことを思うと、とても冷静ではいられなかったと述べる。

 浅見教授は『キリシタン時代の偶像崇拝』の中で、「キリスト教が権力に反する存在であったので、迫害を受け、殉教者が輩出したのではない。(中略)むしろ、キリスト教は、迫害を受け、殉教者を輩出したことによって、幕府権力に反する存在であると認識されるようになったと考えられる」と論考しているが、著者はまた違うベクトルでキリシタンを語る。

 研究者のように論証するのではなく、あくまでノンフィクション作家として、一人の人間であったキリシタンの心性に迫り、何が彼らの心を動かし「殉教」に結びついたのかを知ろうともがく。もとより簡単に結論が出るような事柄ではないが、自ら考え、思いを馳せることの大切さを、本書は強く感じさせてくれる。

 「まろりん」と音を立てるリュートと共に、中世西洋音楽の世界へ、キリシタンの心性を探る旅へと出かけてみるのも面白い。リアルでは旅行どころか、気ままに出かけて人と会うことさえ難しいご時世だが、死がとても身近だった時代、人が何に心のよりどころを求めたのかを考え、思いを馳せることは、今しておくべき旅なのかもしれない。

【Ministry】 特集 サブカルチャー宣教論編 ニッポンの教会が見出す新たな地平 31号(2016年11月)

【本体1,900円+税】
【平凡社】978-4582838459

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