【雑誌紹介】 泥臭い姿が視野から消えて 『カトリック生活』4月号

 聖ヨセフ年記念号「父親としての姿」。「試練を生き抜く名わき役」(髙見三明)、「聖ヨセフ、『しかだァねァ』の人の霊性」(柳田敏洋)、「聖ヨセフにみちびかれて」(大阪聖ヨゼフ宣教修道女会)、「いまこそ、ヨセフに注目しよう!」(平林冬樹)。

 連載「〝キリスト者〟と〝思想〟の交差点」で筆者の来住英俊(御受難会司祭)が言う。

 「この記事は、個人の人生ではなく、日本の教会の歩みをテーマにしている。組織の歴史の場合には、人生走馬灯的な自己理解は問題にならない。教会を語る場合、キリスト者はやはり、つい劇的な仕方で語ってしまう。

 『教会は日本の地にイエス・キリストとその福音を広めようとして努力してきた。しかし、地の利、時の利がなく、見える成果はあまり上がっていない。しかし、それにくじけず努力を続けている』『勇気がないために、戦時中は国策に迎合してしまったが、今はそれを深く反省して、同じ過ちを犯さないように警戒している』

 このような語り方も、日本の教会の歩みを伝えていることはたしかである。しかし、だいたい立派になりすぎている。私たちは『口で言うほど』には、実際にはやっていない。あるいは、『自分でそう思いたいほど』には、やっていない。福音宣教を強調するけれど、日本の地にイエス・キリストの名を広めるための組織的な活動は、教会からほとんど消えている。教会の援助活動(これも福音宣教と呼ばれている)にはかなり実質があるけれど、教会の資源の多くは自己の保存と継続のために使われている。

 私は『たいしてやっていない』ことを批判したいのではない。自己の保存と継続が活動のほとんどを占めていることは、地上を生きる存在として当然のことである。それは恥ずべきことではない。創世記にはこうある。

 お前は、生涯食べ物を得ようとして苦しむ。お前に対して土はあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前を顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。(創世記3・17~19)

 教会の運営資金を調達するのに、泥臭い苦労をするのは当然である。新しく司祭修
道者を得るためにアクセクするのも当然である。ときには若者に媚びるような言動もせざるをえない。

 お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男〔筆者注・若者〕を求め、彼はお前を支配する。(同3~16)

 格好の良い劇的な語り方ばかりをしていると、日本の教会のこのような泥臭い姿が視野から消えてしまうと思うのである。もっとクールな、地に足の着いた自己認識の努力をしなければ、私たちキリスト者はしだいにファンタジーの世界に生きることになる。教会の活気が衰えるにつれて、ますますファンタジーの世界の自閉した住人になっていくだろう。バーナード・ロナガンのいう情報――理解――判断――選択のサイクルとして、日本の教会の歴史を検討しようとしているのは、教会の実践の歴史をクールに見直すためである。この見方では、福音宣教や神の国を広めるという高邁な努力も、自己の保存と継続のための泥臭い努力も、同じ見ることができる」

【220円(本体200円+税)】
【ドン・ボスコ社】

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