【書評】 『聖なる神の聖なる民』 大頭眞一

 「焚き火を囲んで聴く神の物語・説教篇」第4巻はレビ記。帯にもあるように「ささげ物と掟が満載、律法の要塞のようなレビ記」は、旧約聖書を読んでいて最も眠くなる難所だとの声がある。

 3500年も前の動物のいけにえと、現代の私たちにどんな関係があるのだろうという疑問は誰もが抱くもの。著者は、聖書の難しい箇所を読むときのコツは「主語は神さま、動機は愛」だという。そのコツどおりに読み解きながら、神が愛のゆえに行動され、私たちから応答を引き出して、歴史を進めているということを実感させていく。

 「旧約で『ささげ物』ときたら、どうせ予型論だろう」といううがった見方もいい意味で裏切って、第一章の「全焼のささげ物」や「穀物のささげ物」からがっぷり四つに組む。予型論的な展開も、会衆に理解しやすく工夫され、会衆とともに練り上げられて恵みにたどり着くよう導かれている。

 ポイントは「説教」であること。「講義」のように知識を伝達するのでなく、礼拝という身体的な営みの中で「神とともに生きる」ことの喜びを伝える「説教」は、即効性のある「ご利益」とも違う。牧師が最も苦心し、同時にやりがいを感じるところだろう。

 神学者の加藤常昭氏が主宰する「説教塾」塾生であった著者は、「率直さ、そういう人格的な要素が説教には必要だ」と感じ、「説教の目的は人々の顔が神を仰ぎ見ることにある」と悟った。そして、「恵みの中に会衆を取り残す」というエンディングを体得したと語る。

 講壇で話す説教者でも、隣に座っている人でもなく、神のみ顔だけが眼前に残り、その恵みの中に置いていかれるのだとしたら幸いだ。人は、人づきあいや仕事をするために教会へ通うのではなく、牧師の学識に感心したくて説教を聞くのでもない。ライブのような臨場感のうちに、目に見えないはずの神を仰ぎ見、「救い」を実感するため礼拝に参与するのだ。

 説教という「言葉」なのに、「言葉」の向こうへ誘われる感じがするとの感想も巻末に紹介されている。豊富な感想が寄せられているのは、それだけ神との対話がなされたということだろう。

 既刊シリーズ同様、思わず「ジャケ買い」したくなる装幀もいい。

【1,210 円(本体1,100円+税)】
【ヨベル】978-4909871473

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