【雑誌紹介】 キリスト教へのリスペクトを… 『カトリック生活』10月号

 特集「音楽の中のイエス・キリスト」。

 冒頭、「演じる者がキリスト教へのリスペクトをもつと、劇場は神殿になる」と新国立劇場首席合唱指揮者・三澤洋史とオペラ歌手、声楽家の小森輝彦(東京音楽大学教授)が音楽の中のイエスについてバッハの受難曲を中心に語った。

 「小森 福音書そのものがそれぞれに雰囲気が違っていて、中でもヨハネ福音書はとても崇高な感じを受けます。それはバッハが作曲した『マタイ受難曲』(以下『マタイ』)、『ヨハネ受難曲』(以下『ヨハネ』)でも同様で、いろいろな描かれ方のイエスに出会うということは、まさにイエス・キリストが人として私たちの中にいたという証しなのかもしれないですね」

 「三澤 小森さんは長くドイツで活躍されて宗教曲もたくさん歌われていますが、キリスト教の信者ではないですよね。宗教音楽に携わるとき、信仰の有無を考えることはありますか。

 小森 洗礼は受けていませんが、ヨーロッパで音楽活動を続けるというのは、キリスト教抜きでは考えられません。……キリスト教と縁がないと宗教音楽は難しいと感じる人もいらっしゃるかもしれませんが、実はそれほどハードルは高くないと思います。イエスの福音はキリスト者じゃなければ理解できないというものでもないし、音楽表現は知識だけではない部分もありますし。

 三澤 アマチュア合唱団で指導していると、「キリスト教の信者じゃなくてもバッハを歌っていいのでしょうか」という人はどの合唱団でも必ずいます。でも、バッハの音楽に魅かれて、バッハを歌って喜びを得ているなら、そしてその喜びが本物なら、信者であるかないかは関係ないと思いますよ。私が信者だから言えるのかな。

 小森 ……私は、「マタイ」や「ヨハネ」をはじめとする宗教曲でも基本的に本能に従って歌うのが最高だと思っています。でもそれは、粗野になることとは違います。信仰心や言語、他者へのリスペクト、物語、背景を認めつつインストールしたうえで、音を出すときは本能的、無意識的でいい。自分の中に本来に入っているものを信じる。歌は、ある意味で感情を解き放った表現なのだと思います」

 「三澤 『ヨハネ』も『マタイ』も第二部になるとイエスの出番は少なくなりますが、登場はしていないのにイエスという存在は大きくなっていきます。

 『マタイ』で、イエスとともにいたことを三度否定したペテロが、にわとりが鳴いてイエスの言葉を思い出して泣き出す(マタイ25:69~75)場面で歌われるアルトのアリアは、感情を揺さぶるように切なくて、イエスはどこにもいないのに、そこに確かにイエスのまなざしがある。イエスがいる。その存在感はすごいです。

 小森 ぼくは以前、草津国際音楽アカデミーで、バッハの受難曲のエバンゲリストで著名だったテノール歌手のエルンスト・ヘフリガーのマスタークラスに参加したことがありました。……そのときのヘフリガー氏の特別公演が「ヨブ記」でした。誰の作品か覚えていないのですが、現代音楽で無伴奏のソロ。椅子に座って歌い始めるのですが、そこからヨブの過酷な人生が展開していく。舞台上のヘフリガー氏に圧倒され、空前絶後の感動で、終わった後しばらく立ち上がれなかったのを覚えています。

 そこには、ヘフリガー氏の作品への徹底した理解があったのだと思います。そうすると降りてくるのです、何かが。演じる者がキリスト教へのリスペクトをもつと、劇場は神殿になる。その瞬間を見たという気がしました。

 三澤 音楽家ってみんな、きざな言葉で言うと自分は神殿を用意していると思っているのではないかな。私は、特にバッハの音楽をやっているときに何かが降りてくると感じることがあります」

 「小森 真摯にスコアに向かっていくと来てくださる確率は高くなるかもしれませんね。先ほど、キリスト教の信仰をもっていなくてもバッハを歌えるかという話をしましたが、私は、例えば仏教の人がいかにバッハを愛せるか、ということが世界平和につながるのではないかと思っています。もちろん、暴力は絶対いけません。でも、相手が悪いと言っている間は世界平和には至らない。

 それぞれのアイデンティティーを認め、差をうやむやにするのではなく明確にしたうえで、違う意見をもった者どうしでも歩み寄ることができたとき、平和が生まれるのではないか。多様性を認め合おうという雰囲気がつくられつつある現代社会で、信仰のあるなしを越えてみんなが喜んでバッハを歌えたら、きっと本当の世界平和が見えてくると思います」と。

【220円(本体200円+税)】
【ドン・ボスコ社】

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