【書評】 『死者と霊性』 末木文美士 編

 コロナ禍のいま、死者を死者として弔うことも困難になり、死の意味が見えにくくなっている。末木文美士氏の『日本思想史』の出版を機に、自由な討論の場として設けられた研究会から、近代の見直しという共通の問題意識が芽生え、「死者と霊性」をめぐる座談会として結実した。本書は、1日をかけて行われた3部からなる座談会の内容と、発言者(中島隆博、若松英輔、安藤礼二、中島岳志の4氏)の論考を所収。まえがきにあたる《提言》では、編者の末木氏が日本の近代化の流れを概説し、問い直すべきテーマを明確にする。

 「近代の理論の中で、見えざる死者はその正当な位置から追いやられてしまった。死者を排除することこそが、近代的として賛美された。仏教においては、葬式仏教が軽蔑され、仏教は本来生者のためのものだと論じられた。だが、現実には近代の仏教の経済的基盤は葬式仏教によって成り立っていた。その現実を見ずに、理論において死者を抹殺してきたのが近代である」

 近代的世界観は合理性によって把握できないものを容赦なく抹殺する特徴があり、見えざるものを代表する死者たちは排除され、信仰は公共の場で議論されることではなく個人の内的な問題とされた。しかし、東日本大震災は死者の存在を改めて強く意識させ、原発事故は見えざるものの力を思い知らせた。実際、見えるものと見えざるものの区別は判然としておらず、見えざるものである死者も決して放置していいものではないと末木氏はいう。

 末木氏の司会進行によって各氏がそれぞれの見方を展開するが、導入から白熱した意見交換がなされる。座談会という形式であることで、一つの発言に触発されて他の意見が引き出される。「見えないものというのは、必ずしも私たちの存在を脅かすものばかりではありません。 『近代』がつくってきたのは可視的な、可触的な、あるいは検出可能な世界です。検出できないもの、測れないもの、しかし実在するものと、私たちはこれからどういう関係を持っていくのか、その岐路に立たされている」(若松氏)

 第Ⅲ部で取り上げられるのは、政治との関係。中島岳志氏は「死者の立憲主義」について語り、安藤氏は折口信夫と靖国との関係を述べる。そこから、天皇をどう捉えるか、「近代」と「政教分離」に関する議論につながっていく。

 「『政教分離』をどう理解するかというのは、難しいですよね。英語だったら separation of state and church ですから、国家と教会なんですよね。それをそのまま日本に当てはめるというわけにたぶんいかなくて、プロテスタンティズムを核とする宗教理解ではなかなかつかめないのが実態だったと思うんです。まさに無教会は、教会に関して否定をするわけですから。では、どうやって近代日本で『政教分離』を考えていけばいいのか。大日本帝国憲法の中で、井上毅たちが『政教分離』の問題を考えていたと思うんですけれども、今とそんなに変わっていないと思うんです。だから、ひょっとしてこの問題は、明治以降きちんと議論できていないのかな、と。やはり宗教概念が曖昧なわけですね。さきほど私は仏教の宗教化とか、儒教の宗教化あるいは非宗教化の話をしましたけれども、そもそもどういうかたちで『宗教』をつかまえるのか、そういう議論につながっていくのかな、と思います」(中島隆博氏)

 日本では「宗教」という概念から問い直す必要がある。若松氏は、「死者と霊性」の問題はどんなに議論しても語り尽くせないものではあるが、実在として認識していくことで「浮かび上がらせる」ことはできるのではないかと話す。

 コロナ禍が近代的価値観を決定的に揺るがせたとして、これからどんな世界観を築いていけばいいのか。「死者と霊性」、宗教の問題を抜きにして進んでいくことは不可能だろう。本書は一定の結論に回収するのでなく、各氏が縦横無尽に語ることで問題の所在を「浮かび上が」らせ、そこからどう考え、何を選びとるのかを読者に委ねる。

【946円(本体860円+税)】
【岩波書店】978-4004318910

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