【書評】 『ヒュパティア:後期ローマ帝国の女性知識人』 エドワード・J・ワッツ 著、中西恭子 訳

 ローマ帝国治下のアレクサンドリアで活躍した哲学者にして科学者のヒュパティア。日本ではあまりなじみがないかもしれないが、世界で最も有名な新プラトン主義者とされ、ローマ帝国の男性社会を生きた女性知識人として多くの文芸・絵画に描かれてきた。フランスの哲学者ヴォルテールも関心を寄せ、「彼女はホメーロスとプラトンをテオドシウス2世の時代のアレクサンドリアで教えた。聖キュリロスはキリスト教徒の大衆をけしかけて彼女を襲わせたのだ」と書いている。本書はヒュパティアの生涯とその生きた時代をたどり、後世の伝説でいかに語られてきたかまで敷衍して論じる。

 ヒュパティアが生まれ育った4世紀のアレクサンドリアには、30~50万もの人が暮らし、ローマの国教となったキリスト教が多数派であるものの、伝統的多神教との間に微妙な均衡が保たれていた。数学者で哲学者の父を持つヒュパティアは、長じるにつれ父をしのぐ優秀さを示し、アレクサンドリアのもっとも傑出した知識人の1人となった。女性はほとんどの公職に就くことができない時代だったが、ヒュパティアは学術的テクストの注釈書を著すなど高度な学術研究や教育活動に従事し、彼女が率いる学塾からは政界や宗教界に有能な人材が輩出された。ヒュパティアは究極の神的な力をキリスト教的あるいは非キリスト教的な性質と特定せずに、神性との合一に至る観想への道を示していた。

 しかし、5世紀に入ってキュリロスがアレクサンドリア主教となると、彼とローマ帝国総督が衝突し、キリスト教と伝統的宗教との分断が表面化した。総督にしばしば会っているヒュパティアは魔術で総督をたらしこんでいると誤解され、敵視されるに至った。事件が起こったのは415年。キュリロスに使嗾されたペロスらキリスト教徒の一群が、ヒュパティアをむごたらしく殺害した。ヒュパティアは宗教色なしに純粋な観想的哲学を追求していたが、政争に巻き込まれ非業の死を遂げたのだ。この事件は、多様な文化の出会いの場所としてのアレクサンドリアが終焉を迎える象徴的出来事だった。

 ところが、彼女の死は後世に様々な文脈で伝えられていく。7世紀のニキウ主教ヨアンネスは『年代記』で、ヒュパティアの殺害をキュリロスの英雄的勝利として描いた。ヨアンネスからすれば、魔女ヒュパティアの死は異教が征服される凱旋の時の幕開けだったからだ。一方、この事件を恐怖による支配の始まりと考える者もいた。その後もヒュパティアは歴史の中で、宗教的栄光のために人をスケープゴートにすることが許される状況下では悪しき魔女として、女性の地位向上を目指す人には女神のようにたくましい英雄的先達として語り継がれてきた。

 「ある書き手にとって、ヒュパティアの死は異教の終焉とキリスト教の最終的な勝利を記念するできごとだった。また別の書き手にとっては、古代の理性の時代が彼女とともに亡び、長い迷信の世紀に交替する時代のはじまりだった。さらにほかの書き手にとっては、彼女の殺害は近代になるまで女性が得ることのできなかった知に携わる機会と政治への影響力を女性が享受した時代であった。それでも、ヒュパティアをめぐる物語のほとんどすべてのなかで、より大きな歴史上の期間がヒュパティアとともに死んだ」(「エピローグ 伝説を再考する」)

 原著者のワッツは、ヒュパティアの死は確かに劇的だが、その死に人生を覆い隠させてしまうのは、彼女に対するひどい仕打ちだと述べる。才能ある女性が十分に平等を享受できない社会で、ヒュパティアは自由にふるまえる余地を見つけ、結婚しないことを公言して公的知識人の役割を担った。宗教思想や性別を超えた彼女の活動は、当時のアレクサンドリアに知的文化の均衡と多文化主義的状況をもたらした。並々ならぬ覚悟を決め意義深い事績を残した女性として、彼女の死と同様に彼女の歩んだ人生をも認識して正当に評価すべきだと本書をしめくくる。

 キリスト教史の面から見るなら、旧約聖書のギリシア語版『七十人訳聖書』がアレクサンドリア大図書館に収録されるために作られたことが思い起こされる。これはこの都市の多文化主義的状況を背景としたものだったが、ヒュパティア以降その状況が変わっていく。また、彼女の死に関わったキュリロスが、その後ネストリウスに対して攻撃をしかけ、430年にローマ教会と東方キリスト教会を分裂させたこともあわせて想起されよう。ヒュパティアの事件はジェンダー、フェミニズム、宗教と暴力という側面から論ずることもできるが、何より驚くべきは、千数百年も前のローマ帝国で1人の女性が知的指導者として生き抜いた事実ではないだろうか。多様性に開かれた社会を模索する現代から見ても、彼女の勇敢な生き様は光を放ち、揺らぐことがない。

【3,960円(本体3,600円+税)】
【白水社】978-4560097946

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