【書評】 『恩寵燦々と 聖霊論的自叙伝』下巻 手束正昭

日本の贖いの道筋が明らかにされた

 待望の『恩寵燦々と』下巻〝雄飛の時代〟がようやく刊行された。上巻〝雌伏の時代〟を何度読み返したかわからない。一人の幼子が死の淵から救い出され、か細い従兄の手に守られて故国にたどり着き、何度も苦難を潜り抜けながら、やがて神の器として立ち、用いられていく。ドラマチックな場面の展開に、息つく間もなく読ませられた。読み終わってしばらくすると、また読み返したくなる。自分自身が行き詰まりを感じるたびに、迷いに揺れ動くたびに、また読みたくなるのだ。それは、自叙伝でありながら真の主人公は著者の手束氏ではなく、聖霊ご自身であるからだろう。手束氏の歩みを通して、聖霊がご自身を語っておられるのだ。

 なぜ聖霊は、妨げられることなく、ご自身をあらわすことができたのか。それは、著者である手束氏の、執筆における覚悟がもたらしたものであると思う。できうる限り真摯に、正直に、主のみ前に虚飾も粉飾もなく自らの歩みを書き綴っていく、簡単なようで誰でもができうるわざではない。執筆当時、手束氏はしばしば夜の眠りの中でうなされたとお聞きする。確かに「書き記す」ことによって解消され、浄化されていくカタルシスの作用もあるであろうが、そうなっていく前には、痛みを伴う場面と向き合うという作業が必要である。だから多くの人は書かずに済ますか、書き流す。

 上巻もそうであったが、特に下巻を読みながら、一語一語が彫り刻まれていく光景が見えるような気がした。それでは手束氏が、渾身の力で鑿(のみ)をふるって、刻み残そうとしたことは何なのか。

 それは、神に従って生き、苦難を通して成長し、造り変えられていく信仰の歩みのすごみ、その歩みの中で出会う深いお取り計らいとご計画、すなわち「恩寵」である。しかし、それだけでは終わらない。聖霊は、一人の稀有な神の器の生涯を語っておられるようで、実は、この日本という国に対して持っておられる贖いの道筋を明らかにしておられるのだ。

 手束氏の聖霊刷新運動への挺身は、使徒行伝以来の聖霊のみ業が、現在でも続いていることを日本のキリスト教界に対して、明確に証ししていくこととなった。私自身もペンテコステ派の群れで救われた者なので良くわかるのだが、聖霊の恵みに与った者は、その体験のすばらしさゆえに、ともすれば体験そのものによりかかりがちである。「体験すれば、わかる」という姿勢で周囲に対するので、反対する者を論理的に説得しようという熱意が薄い。ところが手束氏は、教会内外の批判に答えて神学的な論証を展開していく。あたかもパウロが、異邦人への福音の拡大をローマ人への手紙をはじめとする書簡の中でユダヤ人に論証していったように。紛争を解決するために、やむにやまれぬ思いでなされたことであったが、結果的には現代における聖霊のお働きの神学的な土台を確立することとなった。苦難の中に摂理的に働かれ、ご自身のご計画を進められる恩寵の主の姿がここにも表れている。

 台湾・韓国という近隣諸国への渾身の関わりを通して、日本のリバイバルを切望する手束氏の真摯な姿勢を見る。韓国教会の爆発的な成長は、まさに使徒行伝的であった。多くの日本の教会、クリスチャンがその秘訣を知ろうとして渡韓し、聖会にセミナーにと熱意を持って参加していった。日本における韓国教会の宣教協力も決して忘れてはならないものだ。しかし、それにもかかわらず、日本宣教は遅々として進まない。「なぜか」という問いの答えは、もう一つの隣国である台湾での働きの中に隠されていた。二国を訪問して、手束氏は対日感情のあまりの違いに驚かされることになる。ここから、渾身の昭和史研究が始まるのだ。その成果は氏の著作『日本宣教の突破口』に詳述されている。

 キリスト教信仰がいかにして日本国民の精神的支柱になりうるか、という大きなテーマがここに語られているのだ。個人にとってアイデンティティーの確立がその人を生かすように、一国にあってもそれは国を生かしていく力になる。明治維新を潜り抜けて近代国家を建設する中で、西欧の植民地化をはねのけて国づくりを達成した人々には、強烈な自負心があった。この時代、多くのクリスチャンが社会の第一線で活躍し、日本人の自ら恃むこころを育て上げるために、大きく貢献したのだ。しかし、昭和20年の敗戦を境に、「一億総懺悔」という言葉と共に、すべてが変わっていった。自尊心も自負心も砕かれた。寺山修司の「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」という歌は、端的にこの時代の混迷を表している。そして、経済的には復興しても、このこころの空洞は、今に至るまで埋められることがなかったのではないか。いかにすれば、これを埋めることができるのか。それが著書の中で語られていく。

 これまでの日本人の歩みに聖書の光をあて、贖いの賜物を明らかにして、自負心を取り戻す契機を与えること、教会とその語る福音がそれを為しうるなら、この国のリバイバルに貢献できる、それが手束氏の主張である。私には、きわめて真っ当な訴えに思えてならない。空洞化したこころの部分に、闇の力が入り込む前に、それがなされなければならない。

 第一次大戦後のドイツは、まさに敗戦によって誇りも自負心も打ち砕かれた状態であった。経済的な困窮と同じくらい、そのことが国を病ませていたのだ。その空洞に入りこんだのがヒットラーの第三帝国である。ビジョンも熱意も失っていた若者たちが、瞬く間に捕えられていった。近い将来、同じことが日本に起こらないと、どうしていえるだろう。

 近隣諸国との関係においても、過去の歴史を検証し、是を是、非を非として、公平にまっすぐに事実を事実として認め、お互いに赦し合って進む中にこそ真の友好が築けるのではないか。ある場合には、厳しいほどに日本の立場をはっきりと主張する氏の真意もそこにあるのだと思う。

 巨視的な立場からの歴史的考察が鳥の視点だとすれば、地方教会興しは、地を這う者の視点である。地方の苦闘する教会を助けて共に立たせようとする地道で労苦の多い実践である。手束氏の説くところは単なる理論ではない。戦いに次ぐ戦いの中で明らかにされ、生み出されて来た汗の結晶なのだ。そして、それら一つひとつが、今も、そしてこれからも実践され、戦い取られ続けなければならない神の国の領土なのである。これに続けという声を聴かない人はいないであろうと思う。

 さらに言うなら、この著作のもう一つの目的は、戦いに出ていこうとする者に、十分な備えをさせることである。敵の戦術、戦略を明らかにして、足をすくわれることなく前進させるために記されたのだ。そのためにこそ、勝利と栄光だけではなく、痛みを伴う場面をも、あえて記されたのだ。後に続け、敵の策略に打ち勝って前進せよ。聖霊の助けと深い慮りを信じて進めという声が聞こえる。著者である手束氏の声であり、聖霊の呼びかけである。

 かくして満州の戦乱の中に流れはじめた細い川は、徐々に水量を増し、川幅を広げ、日本という国家を超えて流れあふれるとともに、小さな地方の街々をも細やかに潤していく大河となった。聖霊は今も、私たち一人ひとりを通して流れたいと願っておられる。私自身も小さな開拓教会での奉仕ではあるが、この働きが日本全体に神が抱いておられる尊いご計画の、どの部分を担っているのか、自分と自分の教会の果たすべき役割は何なのか、そのことをしっかりと見つめて、歩みたいと思う。

(評者・福本和代=住之江恵泉教会 協力牧師)

【2,200円(本体2,000円+税)】
【キリスト新聞社】978-4873957999

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