【書評】 『クィア神学の挑戦』 工藤万里江

 カーター・ヘイワード、エリザベス・スチュアート、マルセラ・アルトハウス=リードという3人のクィア神学者が紹介され、そのユニークさと課題が語られていく。

 ヘイワードは「ゴッディング」というように、神(ゴッド)を動詞化する。すなわち、一人ひとりのかけがえのない人間同士が出遭う、その関係性そのものの根源的な力こそ神なのである。したがってイエスの唯一性は問題ではなく、誰もがこの関係性においてキリストたり得る。

 一方でスチュアートは世界の再魔術化を語る。それは教会においては聖礼典や三位一体の再評価である。ヘイワードの主張とは異なり、神は神なのであって、私たちではない。生殖によらないイエスの誕生がそうであるように、キリスト教はもともと「クィア」であった。そして終末においてはキリスト者であること以外、私たちのジェンダーを含めたあらゆるアイデンティティは消え去る。

 アルトハウス=リードは「下品な神学」を提唱する。南米の「解放の神学」は西欧の富裕なマーケットで消費され無力化した。その西欧では性的なものが忌避されてきた。いまや自分たちの日常、それも性的な日常を忌避せず語らなければならない。イエスを無謬(むびゅう)、聖書を聖典と見ずに、批判的に応答しなければならない。これらの営みを、いかなる社会的属性にも隔てられることなく連帯して行う。

 本書においては、例えば「父なる神」を「親なる神」や「母なる神」に置き換えるべきなのか、あるいは「父なる神」をそのままに、「父」という語の意味をこそ家父長制から解放するべきなのかといった、単純な全肯定か全否定かという二分法では解決できない議論も随所に見られる。

 「筆者はシスジェンダーの異性愛者であり、また贅沢なほど教育を受ける機会に恵まれた中産階級の人間であり、さらに日本国籍を持った『日本人』として本土にいきている。こうした自身の持つありとあらゆる特権が、『クィア』な視座を学ぶ中で絶えず自分に突き刺さってくる。『同性愛者の人権を守れ』と叫ぶ筆者自身は、性的志向を理由とした差別を受けた経験もないどころか、異性愛カップルのみに許された婚姻制度の恩恵まで受けている。さらに筆者はこれまでいわゆる現場の『運動』にはほとんど参与しておらず、ただ自分が感じる息苦しさからの解放を求めて、アカデミックな『神学』を机の上で学んできたに過ぎない。こうした自身の立ち位置のゆえに、このあまりに大きな差異を超えてなおレズビアンやゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの人々や、また階級や人種・民族が違う人たちと『共に生きる』ことなどできるのだろうか、という問いは常にある」(本書294頁)

 以前「キリスト新聞」に、性的マイノリティに対する理解の現実に絶望した当事者から、「自らの手で『自分たちを救うことのできる』キリスト教を再構築しよう」という趣旨の投書が掲載されていた。このとき感じた、やはりマジョリティに属する自分への無力感に極めて近いものを、本書の著者も感じている。そのことには本文を読みながらうすうす感づいてはいたが、「あとがき」の一文によって確信に至った。

 「マイノリティはハードルが高い。うっかり何かを言って差別だと言われるくらいなら、何も言わず、触れないようにしよう」――そういう腫れ物に触るような感覚を持っている人こそ、心揺さぶられる、スリルある読みができると思う。どんな神学が語られ、また批判がなされるのかは、ぜひ本文をひもといて体験してほしい。

(評者=沼田和也・日本基督教団王子北教会牧師)

【4,730円(本体4,300円+税)】
【新教出版社】978-4400324935

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