【書評】 『遠藤周作と芥川龍之介 史料分析からみたそのキリシタン理解』 香川雅子

 その作品を読んだことがない者はいないといっても過言ではない文学者、遠藤周作と芥川龍之介。2人は日本人とキリスト教、キリシタンに関する数々の作品を発表した。多くの人々がその作品に触れ、影響を受けたが、彼らのキリシタン理解はいかなるものだったのか。長年、上智大学キリスト教文化研究所所員を務め、日本キリスト教文学会の役員でもある著者が、精緻な史料分析によって遠藤と芥川が参照した史料を明らかにし、作品に表れたキリシタン観・宗教観を考察する。

 本書の第一章で取り上げた「最後の殉教者」は、キリシタンを題材にした遠藤の初めての小説であり、ル・フォールやベルナノスなどのカトリック文学で扱われた殉教観も取り入れられている。そこには、その弱さ故、神を何度も捨てた男のゆるしの体験と神への回帰が描かれており、第二バチカン公会議の「愛とゆるしの神」の先取りともいえる作品となっている。この短編を皮切りに、キリシタンを題材にした小説が展開されるようになる。(まえがき)

 第三章ではペドロ岐部を描いた『銃と十字架』、日本人のキリスト教受容に焦点をあてた「日本の沼の中で――かくれ切支丹考」を扱う。遠藤が所有していたキリシタン史料への書き込みなどから遠藤の思考を読み解くと、遠藤のキリシタン史料解釈の限界が見えてくる。

 遠藤の所持していた書籍への書き込みより彼の思考を辿ると、一六・七世紀にキリスト教は一時的に根をおろしたとみているものの、資料もしくは史料の一部より考察したため、キリシタンの理解が偏ってしまったように見える。

 当時の教理書『どちりいな きりしたん』について、カトリック神学の理念が翻訳によって屈折し、日本に概念のないことばは、ラテン語やポルトガル語がそのまま用いられたので、日本人はキリスト教を理解できていないと遠藤はみなした。そして翻訳書の代わりに、後に棄教した日本人イエズス会士のハビアンによる著作を研究したが、当時の教養人だったハビアンですら、キリスト教の本質を理解していないと評価し、キリシタンのキリスト教理解に疑問を持つに至った。(第三章 キリシタン再研究)

 遠藤の代表作『沈黙』(1966年)では、転び伴天連のフェレイラが「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。 我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」と話す。こういった「日本泥沼論」が日本人のキリスト教受容の限界として語られることがたびたびある。また、『沈黙』の執筆後、遠藤は「日本の風土には母の宗教――つまり裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている」と述べている。どちらについても、遠藤が用いた史料から、なぜそうした考えに至ったのか再研究する意義がありそうだ。

 芥川とキリスト教との出会いは学生時代から始まり、第一高等学校時代には、親友の井川恭から英文の「新約聖書」を贈られている。芥川の切支丹物には、「奉教人の死」のようにキリシタンの手本となる人物を描いたものがあるが、その一方で、キリスト教と日本の風土との対立や、キリシタンを揶揄するような作品も執筆している。芥川は、西欧の文化や芸術の根源の一つであるキリスト教に関心を寄せたが、信仰に結びつくことはなかった。著者は、芥川の学生時代のノート「貝多羅葉」に署名が記されたキリシタン史料『日本西教史』『内政外教衝突史』を調べ、それらに書かれた内容が芥川の作品に反映されている可能性を検討する。

 芥川が参考にした『日本西教史』ではキリスト教国である西欧優位の姿勢が見られ『内政外教衝突史』ではキリスト教は日本征服の手段として用いられたことが語られる。遠藤が参考にしたとみられる『日本巡察記』の中にも、日本人を見下していた一六世紀のイエズス会士の存在が描かれている。芥川や遠藤が用いた史料はキリシタン史料のごく一部ではあるが、そこには西欧で発展したキリスト教布教地の日本人は差別され、政治利用されたのではないかという『日本西教史』の翻訳者や『内政外教衝突史』の著者らの不満が読み取れる。このような不公平感は「神神の微笑」(注:芥川の作品)には取り入れられていないようだが、『沈黙』には反映されているといえよう。(第六章 日本の風土とキリスト教との相克)

 遠藤や芥川が提示した「日本人とキリスト教」に関するイメージは、作品が多くの人に読まれることによって広く人口に膾炙するまでになった。しかし、彼らが読み、参考にした史料は限られており、バイアスもかかっていた。もちろん文学なので、史料的な限界があったとしても作品の価値が損なわれるわけではないが、彼らが描いた「日本人とキリスト教」がすべてだと思うことには疑問符がつく。本当に日本は泥沼なのか否か、キリシタンはキリスト教の本質を理解していなかったのか否か、本書を機にもう一度考え直してみたい。

【4,620円(本体4,200円+税)】
【教友社】978-4907991739

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