【書評】 『未完の敗戦』 山崎雅弘

 日本人は、なぜ死ぬまで働くのか。日本の経営者は、なぜ死ぬまで社員を働かせるのか――。弾薬や食糧などの補給物資を送らずに「目標の達成」を前線の兵士に要求した、先の戦争における大本営(戦争指導部)と、給料を上げず休息も十分に取らせずに「成果」を現場の社員や労働者に要求する経営者たちの間には、同じ思考形態が共有されているように見えると、著者は指摘する。

 そのような思考形態は、外国人技能実習生と呼ばれる低賃金労働者と、戦時中にアジア各地から徴用された「労務者」との共通点にも見られる。日本という国や企業の利益のために、過酷な労働環境で道具のように酷使され、搾取されることを当然であるかのように捉える思考の型は、一体どこから生じたのか。本書は、先の戦争における「大日本帝国型の精神文化(思考法)」に、現代の視点から改めて光を当て、その構造を読み解いていく。

 「多くの日本人は、おそらく自分が『大日本帝国型の精神文化』を自分の中に持っているとは自覚していないでしょう。けれども、最近の日本で各種のメディアがことさら強調する『日本人の素晴らしい精神文化』という概念の中に、実はそれと気づかない形で『大日本帝国型の精神文化』がいくつも埋め込まれています」(「まえがき」)

 太平洋戦争末期、日本は特攻による軍事作戦を展開した。その一つである「菊水作戦」(「菊水」は天皇に忠誠を尽くした楠木正成にちなんだ名称)では、若き特攻隊員3067人が命を落とした。彼らを偲ぶ資料館を訪れた著者は、特攻という戦法や特攻隊員の情報はあっても、その戦法を実行させた上官や司令官の責任を問う展示がないことに気づいた。一番重要な問題には一切触れないまま、ただ「戦争はいけない」「平和は尊い」などの一般論に終始しており、責任の所在を曖昧にしているように感じたという。

 「例えば、万世の平和祈念館には同館の設置についての説明文が掲示されていますが、その最後には次のような文章が記されています。

 今日の日本の平和と繁栄は、散華された英霊の犠牲の上に築かれたものであり、平和は 血と涙によってもたらされたものであることを正しく後世に伝えていくことは、残された私達の責務であると信じ、平和への祈りを新たにしたいものである。

 おそらく、多くの日本人は、こうした説明に疑問を抱かずに、黙禱するでしょう。……ですが、本当にそれでいいのでしょうか?」

 今日の日本の平和と繁栄が、特攻隊員の「犠牲の上に築かれた」という表現は、「大勢の若者が『特攻で死んだおかげで』戦後の日本は平和と繁栄を享受できた」という風にも読めるが、実際の因果関係はそのようなものではない。

 「酷な書き方になりますが、戦後の日本の平和と繁栄は、大日本帝国が連合国に敗北し、特攻隊員が命を捧げて守るよう命じられたもの(天皇を中心とする大日本帝国の国家体制=国体)が守られずに崩壊して、戦後の日本が戦前や戦中とはまったく異なる価値観(自由と平和を重んじる民主主義)で再スタートしたことによって得られたものでした」(以上、第二章「特攻」を全否定できない日本人の情緒的思考)

 一般に、過去の歴史を学ぶのは、同じ過ちを繰り返さないためであり、学問的な歴史研究は「実際にどのようなことがあったのか」と、そこに至る経緯をさまざまな角度から実証的に明らかにすることを目的としている。これに対し、いわゆる「保守」論客が語る「歴史の真実」は、当時の大日本帝国が「正しかった」「何も間違ったことをしていない」と主張することに重きが置かれている。それが「日本の名誉を守る」ことだというが、特定の政治思想に基づいて自国の過去の歴史的事実を否認したり、歪曲したりする行為は「歴史修正主義」に過ぎない。

 「日本軍は何も悪いことなどしていない。アジアを解放して、アジアの人たちから感謝されている」という、日本国内の一部でしか通用しない「歴史認識」を頑なに主張することは、一見「日本の名誉を守っている」かのように見えても、国際的に日本人を孤立させたり、日本と諸外国の関係を悪化させたりする危険性をはらむ。

 「慰安婦制度の非人道性や、南京虐殺の事実を認める歴史認識を『自虐史観』と呼ぶのもこれと同じです。自分を戦後の民主的な日本国の一員だと思う日本人にとっては、これらを認めても『自分の名誉を傷つけること』にはなりませんが、自分を昔の大日本帝国と一体化して物事を考える人から見れば、そのような『大日本帝国に不利な歴史認識』を認めることは『自分を傷つけること=自虐』になります。

 彼らは、主観的には『日本の名誉』を守るために戦っているのかもしれませんが、客観的に見れば、彼らが守ろうとしているのは『現在の日本国の名誉』でなく『自らのアイデンティティーと一体化した、過去の大日本帝国の名誉』なのは明らかです。そして、彼らのそうした行動は、『現在の日本国の名誉』を傷つける効果も生み出しています」(第五章 日本が「本物の民主主義国家」となるために必要なこと)

 日本人は、昔から情緒的な美談を好む。特に自己犠牲を伴うとなお弱い。2021年開催の東京オリンピックで難病を克服した選手が大きく取り上げられたが、オリンピックをめぐる議論では「こんなにもがんばってきた選手たちの思い」が強調され、情緒的な理由で開催が支持されたりもした。メディアが美談を盛り上げ、自分も「感動」で気持ちよくなって楽しむとしても、頭の片隅では、それが社会にどんな影響を与えているのかを考える必要がある。それを何らかの目的に利用しようとする個人や団体がいるのではないか。

 「お国のために死ぬこと」が物語化され、手本にすべき物語として社会に拡散され、異を唱えられない「空気の壁」が築かれていた戦時下、特攻隊員たちは「立派に死にます」と家族に遺書をしたため、空に海に散って「英霊」となった。夏が来るたび「英霊」となった者たちの自己犠牲の英雄譚が「平和」と接続して語られ、靖国からは彼らに感謝する空気が発散される。しかし、10~20代の若者たちがなぜそのような死を受け入れなければならなかったのか、その構造と理由を知れば、決して美談にはできないことに気づくだろう。

 77年前に決別したはずの、あの戦争における言説が再び頭をもたげつつある今、「敗戦時の反省」を嚙みしめ、二度と戦時下のような「人命軽視思想」に舵が切られることがないよう目を覚ましていたい。

【1,012円(本体920円+税)】
【集英社】978-4087212167

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