【書評】 『BC級戦犯にされたキリスト者 中田善秋と宣撫工作』 小塩海平

 「宣撫工作」とは、軍隊占領地において軍政を施行する際、被占領地住民が敵対せずに協力するよう住民を懐柔する行為。

 牧師になることを志して神学校で学んでいた1人の若者が、その抜きん出た語学力を買われ、宣撫工作員としてフィリピンに派遣された。現地の人々のために生きようと、他の者たちが帰国した後も残ったために「サンパブロ事件」という虐殺現場に立ち会うこととなり、戦後、戦犯として起訴され、「スガモプリズン」に収監された。名前は中田善秋(なかだ・よしあき)。本書は、これまでほとんど知られてこなかった中田の生涯をたどり、キリスト教会の戦争罪責を問い直す一書。故・渡辺信夫(日本キリスト教会東京告白教会元牧師)、故・山川暁(同教会長老)、内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)各氏らによって立ち上げられた「中田善秋研究会」の記録をもとに、小塩海平(同教会長老)が執筆を担当した。

 中田は1916年、カナダに生まれ、6歳で岡山に移住した。31年に上京し、日本神学校へ入学。校長は村田四郎だった。中田の同級生武田瑛四郎の著書から、当時の日本神学校の様子がわかるエピソードが二つ紹介されている。一つは、日本神学校の校長が率先して皇居に行き、神学生たちとともに「天皇陛下万歳」を三唱していたというもので、もう一つは、佐波亘牧師が「礼拝のことになるとまるで人が変わったように」厳しくなり、玄関がきれいにはかれていなかったりすると、「君、天皇陛下をお迎えする時はどうするか! 神さまをお迎えするのにこんなことでよいのか!」と叱責したという思い出話だ。

 これらが日本基督教団成立以前の出来事であることをふまえ、著者は「戦前のプロテスタント教会が、必ずしも宗教団体法による政府の外圧によって変質したという単純な事情でないことが推察される。むしろ、自ら積極的に、国家に恭順なキリスト教であることを誇示していたのではないだろうか」と述べる。

 1941年にフィリピンに派遣されたプロテスタントの宣撫工作班員は12人。いずれも英語が堪能な者たちだった。宣撫工作班の具体的な活動内容は、大東亜共栄圏の理想を伝える、現地教会合同の世話、良民証の発行などであった。宣撫工作班員たちは軍刀をぶら下げて、軍服同様の姿で現地教会を訪問したため、兄弟としての問安というよりは支配者たちによる威圧的な視察として映るしかなかった。そのような中でも中田は英語に長けていたこともあり、現地で人気があった。他のプロテスタントの宣撫工作班員は、予定通り1年の活動を終えて帰国の途についたが、中田は「日比両国のかけ橋になりたい」と現地に残る決断をした。

 1943年になるとフィリピン各地で抗日ゲリラの活動が活発化し、44年夏以降、戦局は泥沼化した。45年1月末に米国が上陸すると、日本軍は抗日ゲリラ掃討を名目に、一般住民の虐殺を行うようになっていった。2月9日、サンパブロ近郊で最初の「討伐」が行われ、住民が無差別に虐殺された。虐殺の翌日もゲリラの根拠地とされる町に「攻撃」が実施され、住民は「ゲリラ協力者」として粛清された。その後も「討伐」は続き、約3千人の一般市民が虐殺されたとされる。

 サンパブロのゲリラ隊への粛清も計画されていると聞いた時、中田はあまりに残酷であるから反対であると意見を述べた。しかし米軍がサンパブロ近郊の俘虜収容所を襲撃して俘虜を奪回したため、日本軍は粛清作戦は不可避であると判断した。2月24日早朝、勤労奉仕のためと称してサンパブロの住民約千人が教会に集められた。日本軍大尉が演説し、中国人全員と、ゲリラ容疑のあるフィリピン人以外は出ていくようにと指示。中田は、残された者のうち10人ほどを救出したが、他の約500人は教会裏の戦車壕で殺害された。

 中田はその後サンパブロを離れたが、敗戦後の9月に米軍に拘束され、ルソン島南部に位置するラグナ収容所に収容された。そして、そこで始められるようになった「ラグナ信友会」というキリスト教者の交わりに積極的に関わった。一方で、戦争犯罪人として検挙され連日取り調べを受け、サンパブロにおける殺害と焼き払いに関与したとして裁判にかけられた。中田は聖書を読み、祈りをささげる中で、容疑に対しては潔白であるものの、いかなる判決が下されようとも、神のみ旨として受け止められるよう備えをした。罪人の救いのために、いわれのない罪状で十字架にかけられたキリストを思い、「日本人の誰かがその代価を払わなければならない。私は喜んですすみます」と中田は決意を述べている。下された判決は重労働30年。

 中田は1947年にスガモプリズンに移送されたが、50年のサンフランシスコ条約によって刑の執行が連合国から日本に移管された。やがて戦犯の家族や旧軍人らが中心となって戦犯釈放運動が展開され、キリスト教会内でも、52年にYWCA会長の植村環がスガモプリズンを訪問するなど大きな動きがあった。しかし、このような動きに対して中田は、出所を拒否するとともに種々の発言を行った。

 「私どもは釈放という出来事の内に、多くの解決を期待出来ることは確かだ。しかし釈放によっても解決され難い問題が残ることも、又確実である」(『信友』50号、1951年8月)

 「日本人が犯した過誤はもちろん深く悔いられなければなりません。しかしその悔いと代償は、幾人かが処刑せられ、投獄せられることによって決して正当に支払われるものではありません。いな、むしろそのことによって人類は自らに対して借財を積み重ねる結果を呼び起こすに至るのです。

 多くの連合国人や一部の日本人は戦犯裁判によって第二次大戦の罪悪は総決算されたと考えております。それは近視眼的な見方です。自己欺瞞です。私は、これは正に惨めな戦争の一環であると云って過言でないと信じています。第二次大戦の歴史の最後の頁にはまだ空白が残っているのです」(『福音と世界』1952年9月号)

 その後、中田は出所したが、牧師職に就かなかっただけでなく、既存の教会に連なることさえなく、晩年はまったく教会に通わなかった。だが、妻に死期が迫った時、自らの手で洗礼を授けたことが、遺族の証言から知られる。

 「最後の頁にはまだ空白が残っている」――中田の遺した言葉は、今なお重い。

【1,100円(本体1,000円+税)】
【いのちのことば社】978-4264043805

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