【書評】 『大いに喜んで ヨハネの手紙第二、第三講解説教』 朝岡 勝

 東京キリスト教学園理事長・学園長である著者が、前任の日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会で語ったヨハネの手紙第二、第三の講解説教をまとめたもの。コロナ禍、新会堂の建設、牧師の交代と退任などの歩みの中で2021年10月から2022年3月にかけて朝拝と夕拝で語られた説教集である。

 愛の手紙であるヨハネの手紙。一節一節を読み解き、問いを投げかけ、過去を振り返り、現在に適用し、未来を見据えながら、目の前にいて聴いている教会共同体への愛があふれている。

 「あの人を私たちの交わりの外に出してしまえばいい、あの人は私たちの交わりから追い出せばいいと、そのようにして教会が自分たちと異なる者たちを排除して、交わりを閉じていくような方向に進むのではなくて、ディオテレペスさえ『この人も私たちの友だ』と言える懐の深さを教会は与えられているはずです。なぜかと言えば、もともと主の敵であった私さえ愛されているのですから。こんな自分だって教会の交わりに加えられているのだから、その自分がいてよいとされる場所に、『あなたはここにいるべきではない』などと言われるような人がいるはずない。それほどに主の教会の交わりというものはまことに深いものなのです」(「口と口で ヨハネの手紙第三、十三―十五」より)

 各説教の末尾には最後の祈りが載せられている。1ページにも満たない短い祈りの言葉であるが、そこには説教者が最も伝えたいメッセージ、願い、とりなしが表現されている。その祈りを共に噛み締める時、一緒に同じ会堂で説教に耳を傾けたような気持ちになる。

 付論として最後にまとめられた「説教を巡る小さな論考」は著者の説教観を示した、短いが濃厚な論考である。

 説教が伝わらない牧師の苦悩と、み言葉が語られていないように感じる会衆の葛藤。説教をめぐる現実と、その課題を「語る者」と「聴く者」という二分だけで考えるのではなく、お互いがまずキリストの声に「聴く者」であるという視点から、「聴くことと」「生きること」が分かちがたい一つのものであると述べる。

 「私はここに『語られ、聴かれ、生きられる説教』の究極の姿を見ます。説教者が語った神のことばが本当に神のことばであるかは、そのことばによって人々が生きることができるか、福音の喜びに生かされているかによって、すなわちその生き様によって証されるものなのでしょう」(「付論 語られ、聴かれ、生きられるみことば」より)

 著者が長い間仕えてきた教会の歩みを振り返りつつ、共に歩んできた一人ひとりを思い浮かべながら語られた説教。「あとがき」にも述べられているように、丁寧なみ言葉の解き明かしであると同時に、当時の教会の具体的な状況が垣間見える、まさに教会に宛てた手紙のような説教でもある。

【1,980円(本体1,800円+税)】
【教文館】978-4764264670

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