【書評】 『宗教を「信じる」とはどういうことか』 石川明人

 一般の信徒たちのあいだでの「信仰」というのは、誤解を恐れずに言えば、騙し騙し営まれているのです。信じているようで信じておらず、信じていないようでやっぱり信じている、という感じです。

 特定の宗教を信じている人であればギョッとし、そもそも宗教を持たない人であれば意外に思える言葉ではないだろうか。この気づきが本著における著者の最大の意図である。桃山学院大学教授として宗教学と戦争学を講じ、自身もキリスト教徒である著者。本書では宗教における「信じる」とは何かを問い直す大胆な営みがなされている。

 「信じる」という言葉には「疑わない」というニュアンスが含まれている。キリスト教においても誰かが「神を信じている」と言えば「この人は神の存在を疑っていないのだ」と思い浮かべる。一方で聖書を読むとイエスは十字架にかけられた時、神に対して「なぜ私を見捨てたのか!」と抗議し、神への不信を表している。これを著者は「素直に読むならば、これはつまり、神に不満を述べたり、抗議をしたり、疑ったりするのは自然だということではないでしょうか」と述べる。つまり神を信じていると言いつつも、どこかで存在を疑う時、とりわけ事故や災害、理不尽な苦しみなどにおいて一層それは色濃くなる。しかしそのような時こそ、まさにイエスのように正直に嘆き、叫ぶこともまた「信仰」であり「救い」ではないかと著者は述べている。

 あのイエスでさえ、神に文句を言ったのです。ですから、イエスよりもはるかに平凡な私たちが、神に文句を言い、神を疑ったところで、いったい何が問題だというのでしょうか。むしろ、決して神を疑うな、何があっても信じろ、信じろ、と圧力をかけてくる凝り固まった「宗教」によって人類が苦しめられることの方が問題ではないでしょうか。時には神に抗議し、神に文句を言い、神を疑ってもいいのだ、それも自然なのだ、ということをイエスが身をもって示したのであり、それ自体もまた「救い」の一側面であるように思われます。

 また著者は「神を信じる」「神は存在する」と単純に告白しないケースや無神論的と思われる言葉を残している人物たちから「信仰とは何か」を考察しようとする。本書では例としてドイツ出身でアメリカに亡命した牧師・神学者パウル・ティリッヒのこのような言葉を引用している。

 神は存在しない。神は本質と実存をこえた存在それ自体である。だから、神が存在すると論じることは、神を否定することである。

 牧師・神学者として第一線で活躍していたティリッヒのこの言葉は衝撃的である。しかし著者はこの言葉を「『神』というのはコップや机のようなさまざまな存在物のなかで頂点に立つものなのではなく、『存在それ自体』『存在の根底』であって、他のさまざまな物体が存在するものと同じようなレベルの存在ではないという考え」と述べ、「信仰」「神を信じる」ということが実は複合的な概念によって成立していることの一例を示した。

 他にも、本書では人々や信者が自明として捉えている「信じる」の定式をさまざまな角度から一つずつひも解き、その意味の考察が行われている。キリスト教徒はもちろん、牧師などの教職者にとっても必読の1冊である。

【968円(本体880円+税)】
【筑摩書房】978-4480684394

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