【書評】 『唱歌「蛍の光」と帝国日本』 大日方純夫

 卒業式などで歌われる唱歌「蛍の光」を知らない人はいないだろう。唱歌とは、学校教育用の歌のことを指し、1872(明治5)年の学制発布から1941年に「音楽」と改められるまで、科目名としても用いられた。しかし小学校の教科の一つとして「唱歌」が置かれたものの、教材の選択が難しく、しばらく実施が見送られていた。「唱歌」教育が本格化するのは、文部省に音楽取調掛が設置され、伊澤修二が掛長に就任してから。伊澤の尽力でアメリカ人メーソンが来日し、東京師範学校などで唱歌の教授にあたった。

 「蛍の光」の歌詞が提出され、文部省内で検討が行われたのは1880年のこと。当初は題名がなく、「蛍の光」ではなく「ほたるのあかり」だった。この唱歌を含んだ『小学校唱歌集』初編が82年に発行され、卒業式で歌われるようになっていく。

 「『蛍の光』の歌詞の一番は、中国の故事『螢雪之功』を踏まえたものであり、二番には、学業成就と別れが歌い込まれている。そして、三番は、南の『筑紫』(九州)と北『陸奥』(東北)という南北の広がりを示しつつ、この国土への地理的な分散と、それにもかかわらず要される精神的な一体感と国家意識の重要性が称揚されている。すなわち、『国民』意識を養成することによって、『国民国家』の建設をはかろうとするのである。そのうえで、最後の四番で、国境線を明示することによって『国民国家』の境界を明示し、『国境』防衛=国土防衛の課題を明示する。こうして、『蛍の光』の歌詞は、中国文化の土台の上に、近代ナショナリズムの課題を明示し、国民的な一体化をうながそうとする歌として、『国民国家』形成期の日本で誕生した」(「蛍の光」の誕生)

 「蛍の光」のメロディーは、スコットランドで古くから口承で伝えられてきた曲「Auld Lang Syne」(オールド・ラング・サイン)である。19世紀にはアメリカでも多様に編曲され普及し、さまざまな替え歌が生まれていた。他方、日本でこの曲は讃美歌370番の「目覚めよ我が霊」としても歌われていた。『小学校唱歌集』初編に収録された全33曲の出典は讃美歌だらけだとして、メーソンがキリスト教宣教師と連携して、唱歌のなかに讃美歌の導入をはかったのではないかという仮説もある。

 「蛍の光」が卒業式で歌われるようになった82年、日本政府は対清戦争の準備を始め、軍備拡張を進めていた。89年、国民皆兵の原則が固まり、徴兵体制が確立していく。軍隊は男性軍であり、いざとなれば「一命をすてる」ことが強制されるが、何のために、誰のために「一命をすてる」のか。日本の軍隊が「一命をすてる」ことを迫る方法には、独特のものがあった。「義勇奉公」の対象は国民一般ではなく、あくまでも「大君」=天皇であった。「御国の為」とは、窮極的には天皇に対する忠勇であり、それこそ振り起すべき精神の基本とされた。

 「蛍の光」の歌詞は、戦争によって「日本」の範囲が拡大すると改変された。四番の歌詞「ちしまのおくも おきなはも やしまのそとの まもりなり」は、「千島のおくも 沖縄も 八洲(やしま)のうちの 守りなり」となり、戦中には「台湾の果ても 樺太も…」と歌われるようになった。さらに日本は、朝鮮・台湾の学校で「君が代」「皇御国(すめらみくに)」「蛍の光」といった唱歌を歌うよう教育を行った。

 1945年、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、戦争は終結した。大日本帝国の膨張にともなって、朝鮮・中国など各地に進出していた日本人(約660万人)の逆流現象が起こった。文部省次官通牒により、教科書に含まれている戦時色の強い教材は墨で塗りつぶされた。46年、文部省は暫定教科書を発行したが、そこには三番四番が削除された「蛍の光」が掲載されていた。80年代に入ると、小学校音楽指導資料のなかで卒業式用の音楽として「蛍の光」の演奏指導が求められるようになり、以後、3番・4番のない「蛍の光」が卒業式の定番として命脈を保ってきた。またそれと並行して、「蛍の光」のメロディーは、大晦日や商業施設の閉店の際のBGMと化していった。

 もうすぐ、「蛍の光」が歌われる季節がまためぐって来る。歌詞の変遷は、戦争に振り回された「蛍の光」受難の歴史を物語っている。芸能人による「新しい戦前」という発言が話題になった今年。この歌を歌いながら、自らの歩みを振り返るだけでなく、「日本」の来し方行く末にも思いを馳せたい。

【1,980円(本体1,800円+税)】
【吉川弘文館】978-4642059589

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