【書評】 『春いちばん――賀川豊彦の妻 ハルのはるかな旅路』 玉岡かおる

 貧民救済から労働運動、震災の救援活動にまで直接身を投じ、共同組合設立や共済の確立に貢献した賀川豊彦のことを知る人は多い。だが、その傍らに咲いていた〝花〟に目を向ける人は少ない。賀川の妻ハルもまた社会運動家であり、覚醒婦人協会を創立し、 日本基督教婦人矯風会の理事を務めるなど、女性解放運動を主導した。夫亡き後はその事業を引き継いで軌道に乗せた。本作は賀川ハルについて書かれた初めての伝記小説である。

 春一番は、春先に吹く南寄りの強風。その後に気温が上昇し、本格的な春になる。いわば春を連れてくる風。困難にあうたび自分を新しく作り変え、時代さえも切り拓いていくハルを春の訪れを告げる薫風に重ね、人気作家・玉岡かおるがその生涯と周囲の人々との交流を爽やかに描く。

 1888(明治21)年、横須賀で芝房吉・むら夫婦の長女として生まれたハルは、貧しいながらも愛ある環境で育ち、15歳で東京に女中奉公に出た。福音印刷会社の村岡平吉の妻が房吉の姉だった縁で、房吉は平吉の会社で働くこととなり、房吉の神戸転勤を契機にハルもまた神戸に移って福音印刷会社の女子工員となった。

 当時、日本でキリスト教が解禁となり、宣教師によって布教が進められ、キリスト教が急速に浸透していっていたが、聖書が不足していた。米国聖書協会の援助で建てられた日本語聖書の印刷所を平吉が引き継ぎ、日本人だけで出版できるところまでこぎ着けた。このころ、聖書はすべて平吉の工場で刷られているといっても過言ではなかった。平吉は横浜指路教会の長老を務める篤信の信徒。平吉が神戸工場で働く従業員の教育のために呼んだのが賀川豊彦だった。ハルは信仰を持ってスラム街での賀川の働きを助けるようになり、やがて2人は婚約する。

「『いつからそういうことになったんだ?』

二人の気持ちを確かめるように訊く。

生半可な気持ちでは賀川の妻は務まらないぞ、平吉の目がそう言っているようで、ハルは背筋を正した。表は静かな紳士の顔だが、その背中には燃える不動明王がいることを知っている。だからこそ、ハルも生半可な答え方はできない。

『先生のおかげで、こんな無能な私でも見守ってくださる存在のあることを知りました。どんなに無力な者でも、生きる価値のある命であるとわかりました。だから私の他にもそのことを伝えてくださるように、先生をお手伝いしたいと思っています』

燃えているのに冷たいような平吉の目が、ハルの心を透かし見るように注がれる。ハルもまたその目から視線をそらさなかった。なぜだろう、かつてはこの伯父が恐ろしくて、泣きながら床に顔を伏せたというのに、今のハルは内側から沸き立つ熱に支えられているかのようだ。

 そっと賀川が肩を叩いてくれた。

 その時ハルは自分の中の熱の正体を知った。これが勇気だ。そして愛だと。

『そうか。がんばれ』

 まぶしそうに目をそらしたのは平吉だった」(第六章 新川のほとり)

 スラム街での貧民救済は新婚夫婦にひと時の休みも与えなかった。けがや病気でも医者に見せる金がないため見捨てられ、次第に病み衰えて、これが人間かというほど悲惨な姿になって死を待つばかりという人の群れ。動けないまま、誰もかえりみないせいで、腐敗と悪臭、死の気配が濃く立ち込める。眼病のトラホームが蔓延し、病人を看病するうちにハルも感染。片目の視力を失った。賀川も感染したが、健康と雇用を貧民救済の2本柱と考えて身を粉にして活動した。

 だが、そのような献身であっても、心身ともに荒んだ人々には偽善に映り、「貧民の話をして金もうけをしているんだ」と悪口を言われ、「金を出せ」と刃物を持った酔漢が教会で暴れ、無抵抗の賀川を殴ったりした。借金によって教会で奉仕をする少女までが苦界に突き落とされ、ハルの涙は止まらない。警察沙汰になることも日常茶飯事。なけなしの金で賭博に手を出し、ますます後がなくなる者、せっかく得た職を面倒がって辞め、わずかな金のために体を売る者……。

 「みじめで愚かで、救いがない。なのにハルにはいとおしい人々」(第九章 女たちの覚醒)

 賀川に勧められて、ハルもペンをとってスラム街の現実を綴り、基督教女子青年会機関誌に寄稿した。原稿がたまると、社会問題叢書シリーズの1冊として刊行された。批判する者はどこにでもいたが、「売られたケンカはペンで返す」とばかり、ハルは『基督教家庭新聞』などに寄稿して、賀川の思いを伝えて援護した。

 賀川を通して平塚らいてうや市川房枝と出会い、彼女たちが立ち上げた「新婦人協会」主催の講演会にハルも登壇することとなった。東京の「新婦人協会」のような結社が関西にも必要だと賀川に説かれ、ハルも「覚醒婦人協会」を創立する。「覚醒」という名称はネーミングに長けた賀川ではなくハル自身がつけた。機関誌の創刊号でハルは、「私たちはここに覚醒して自己の地位を改善せねばならぬと思うのであります」と述べて女性たちを鼓舞した。

 「かつてハルという一つの器は賀川のためにあった。それが賀川によって万人のために用いられ今はこうしてあふれんばかりの花を盛る。まさしく、一人は万人のために、万人は一人のために。小さな種から緑を茂らせ、枝を伸ばし、皆に笑みをもたらす歓びの果実をたわわに結んだ」(第十二章 一人は万人のために 万人は一人のために)

 1人の女性の生涯を描いた小説だが、ハルの物語は読む人に力を与えてくれる。新しい年に何か挑戦してみようと思ったり、あるいは新年度を前に不安な気持ちに駆られたりするなら、ハルの勇気に触れてみてほしい。きっと背中を押してくれるだろう。春一番の、強くたのもしいあの風が。

【2,090円(本体1,900円+税)】
【家の光協会】978-4259547790

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