【書評】 『世界は五反田から始まった』 星野博美

 ノンフィクション作家・星野博美による『世界は五反田から始まった』は、祖父から著者まで3代が暮らした東京・五反田界隈の歴史を、そこに生きた人びとの視点から綴るファミリーヒストリー。第49回大佛次郎賞を受賞した。

 五反田は大正初期まで静かな近郊農村だったが、大正4年ごろから目黒川流域の平地に大小数多くの工場が建つようになった。第一次世界大戦の勃発による好景気で近代工業がブームとなり、一大工業地帯に生まれ変わった。著者の祖父は明治期に千葉の房総半島に生まれたが、大正5年に上京し五反田で働き始めた。その後、「桜護謨(ごむ)株式会社」の下請け工場「星野製作所」を創業。主に継手(つぎて)金具を作って納入した。祖父が遺した手記には「軍の突貫工事はよく来た」とあるものの、「星野製作所」が作った製品が最終的に何に使われたのかは書かれていない。しかし著者は、祖父の作った継手金具が戦闘機のような「たいしたもの」の一部に使われていたかもしれないと気づく。

 「うちの継手金具がどんな『たいしたもの』に使われたかは不明なままだが、軍国日本の軍需産業の最末端にうちがぶらさがっていた、と認識できたことは、個人的には極めて大きい意味を持つ」(第2章 軍需工場)

 戦時期には「渡満熱」が盛り上がり、五反田に近い武蔵小山商店街を中心に「荏原郷開拓団」が結成され、家族ともども満州に向かった。著者は大勢の人が満州に行ったことは聞きかじっていたが、戦後商店街に戻ってきたと無邪気に思い込んでいた。しかし実際は、千人を超える「荏原郷開拓団」の中で、日本に引き揚げることができたのはわずか5%ほどだった。地元でも開拓団の記憶が語り継がれてこなかった現実を知った時、著者は島原の原城跡を思い出したという。

 「私は、島原半島の原城跡を訪れた時を思い出した。

 一六三七年、ここを舞台に、キリシタン蜂起として知られる島原の乱(現在では島原・天草一揆と呼ばれることが多い)が起きた。幕府は旧キリシタン大名が治めた藩を中心に、多国籍軍ならぬ多藩籍軍を結成して総攻撃をしかけ、城跡に籠城した三万七○○○ともいわれるキリシタンの老若男女を、内通した一人を除いて殲滅した。原城跡は確かに世界遺産に登録された。しかし、この界隈では、観光客を呼びたい気持ちは山々なのに、住民がまったくシンパシーを感じていないという、奇妙な無関心とでも呼びたくなる空気が漂っている。

 それもそのはず、無人の世界になったここにはその後、半島北部の北目や小豆島から移住者が募られ、彼らが現在の住民の先祖となったのである。負の記憶を封印しようという意図が働くもなにも、記憶が完全に断絶しているのだった。

 武蔵小山は、島原とは事情が異なる。それでも、送り出した側の商店街は、死者のあまりの多さに、語り継ぎたいという積極性は当然のことながら欠けていただろうし、少なすぎた生存者の存在は、この地域の人口密度の高さの中で次第に埋没していったのだろう」(第5章 満州)

 1945年5月24日の城南空襲で星野家は焼けた。妻子を埼玉に疎開させていた祖父はたまたま疎開先を訪れていたため空襲にはあわなかった。祖父はすぐさま東京に引き返して、焼けた工場跡の機械類を片付け、親工場へ報告を済ませて、いったん工場を解散した。

 ところで、この年の3月10日の東京大空襲では江東は廃墟と化し、約10万人の死者を出した。これは広島の原爆に次ぐ死者数とされる。城南空襲でも五反田界隈は焼け野原となったが、死者数は252名とけた違いに少ない。不思議に思った著者は当時の証言を調べた。

 「三月十日に比べ、五月二四日の犠牲者が少なく済んだ理由は、消火を諦めて逃げるという、本能として当たり前のことをして助かった人が多かったということだった。逃げたことで助かった、という証言が続く」

 実は1941年11月に防空法が改定され、空襲時の避難禁止と消火義務が規定されており、消火せずに逃げることは、後ろ指をさされるのみならず、違法行為だった。しかし住民は逃げた。なぜか。そこには人口密集地に〝火の雨〟を降らせた3月10日の東京大空襲が関わっている。ナパームを使った焼夷弾は通常の消火装備では容易に消火できず、火に包まれて死ぬしかないということが分かり、城南空襲の際に住民はそれを教訓にしたのだ。

 「こういう件を読むと、三月十日の大空襲による犠牲者の屍の上に私たちは生きているのだと感じる。

 犠牲者の死を悼みつつも、なぜ彼らが死ななければならなかったのか、その理由を知り次に生かすことはできる。荏原で生き残った人々は、三月十日の教訓を生かし、消火を諦めて逃げたのだった。庶民の知恵のバトンタッチである。戦争を語る大切さの一つがここにある。

 こうして荏原の生存者の証言を読むうち、三月十日の犠牲者が逃げられなかった理由が見えてくる。物理的に逃げ場を失ったことだけでなく、『逃げるわけにはいかなかった』、つまり消火を放り出して逃げたら非国民と非難される、他者の視線に呪縛されたことがあったのではないだろうか。そうだとしたら、戦慄する」(以上、第6章 焼け野原)

 東京空襲、ひいては戦争の教訓は現代にも有効だ。自国が大義名分を掲げて他国を侵略し、戦争を行っている時に「それは間違っている」と声を上げることがいかに難しかったか。他国侵略に何らかの〝活路〟を見出して国策に迎合した者がいかに多かったか――。敗戦後、苦い反省をふまえて、日本がいかにして戦争に突入し、人命軽視に至ったのか語られるようになったが、その教訓は今も十分生き続けているといえるだろうか。

 著者はもし将来、戦争の当事者になった時に「この戦争は間違っている」と声を上げることができるか自信がないという。「だからこそ、いま必死に抵抗の声をあげる一部のロシア国民には敬意を抱く」と。現在、ウクライナの人々がなめている苦しみは、かつて日本がアジアの人々に強いたもの。世界からロシアに向けられている視線が、かつて自分たちの国に向けられていたことを忘れてはならない。

【1,980円(本体1,800円+税)】
【株式会社ゲンロン】978-4907188450

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