【書評】 『田中正造 その生と信仰』 石田 健

 幕末から明治、大正を駆け抜け、足尾銅山鉱毒問題に取り組んだ政治家・田中正造にキリスト教的観点から光を当てた評伝。著者は農村神学校を卒業した日本キリスト教会牧師。牧師として最後の期間を正造に縁深い谷中遊水地近くで任職し、自らの人生の集大成として本書を著した。

 田中正造は1841(天保12)年、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)の名主の家に生をうけた。長じて正造自身も名主となるも、村民を擁護して領主の専横に諫言。「主家に対する不敬」の廉で名主職をはく奪された。1870(明治3)年、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となったが、殺人の冤罪で入牢し、算盤責めなどの拷問に何度もかけられた。嫌疑が晴れ、三年後にようやく出獄。故郷に帰って心身を養生すると、政治家への転身を志した。1878(明治11)年、栃木県第四大区三小区の区会議員に当選。

 「正造は、自分を選んでくれた人たちに対して赤飯をもって感謝の意を表し、また沐浴までして、人々が笑うのもかまわず、区会議員という職分・職責を厳粛に受け止めたのである。それは、正造自身にとっては、政治改革の事業へ歩み出した門出を祝うものであったろう」(第三章 栃木県会議員時代)

 1890(明治23)年、第一回衆議院議員選挙に立憲改進党候補として出馬して当選。1年後の第二回議会で正造が提出したのが「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」であった。足尾銅山は江戸期から採掘された幕府直轄の鉱山。明治期に大鉱脈が発見され、精錬施設が拡張された。しかし燃料にするために山林の乱伐が行われ、銅精錬の際に発生する亜硫酸ガスによって水源地帯は荒廃し、死の山となった。さらに、銅鉱石に含まれる毒性ある鉱物が渡良瀬川に投げ捨てられたため、川魚が死に稲が枯れて、流域に住む人々の健康を著しく害していった。しかし政府や大企業は住民の被害よりも経済を優先し、十分な対策を講じなかった。

 1898(明治31)年、台風で渡良瀬川が大氾濫し、流域一帯が鉱毒を含んだ泥水に覆われると、憤った住民は抗議の押出し(政府に対策を求める陳情)を行おうと東京に向けて出発した。正造は保木間の氷川神社境内に集まった押出し勢2500名に向かって演説し、代表者10名以外は帰郷することを勧めるとともに、彼らに代わって新政府の人々に惨状を説明するなどの約束(保木間の約束)をした。だが、政府が行った農民救済措置が逆効果となり、官憲と乱闘事件が起こった(川俣事件)。事件に衝撃を受けた正造は、政治に見切りをつけ衆議院議員を辞職し、天皇への直訴を試みるが失敗。1904(明治35)年6月から40日間巣鴨監獄で服役したが、正造はその間に聖書を読んだ。聖書を差し入れたのは内村鑑三だといわれるが、著者によれば新井奥邃の可能性もあるという。

 「正造がキリスト教と真に出会うのは、先に少しふれたように、新井奥邃との出会いをとおしてであった。直訴の半年ほど前に、鉱毒問題をきっかけに初めて新井奥邃と会った正造は、その後もしばしば奥邃を訪ねて『論語』について教えを乞うている。〔…〕正造は、初対面で奥邃の高潔な人柄、その『生きられている』信仰に強い印象を受けたのである」(第五章 谷中村時代)

 正造は1906(明治37)年に鉱毒の被害が最も深刻な谷中村に移住。翌年、手紙に「我れは苦しむを以て楽む。キリストの危険を侵すも覚悟なり」と綴った。著者はボンヘッファーの言葉を引いて、正造の思想と生き様をキリスト教的に読み解こうとする。しかしながら正造は生涯、洗礼を受けなかった。正造を(隠れたる)クリスチャンと考えるキリスト教関係者もいるが、その当否や解釈は読者に委ねられよう。

 1913(大正2年)7月、正造は支援者の家で倒れ、還らぬ人となった。享年71。枕元には菅笠と杖、信玄袋。信玄袋の中身は書きかけの原稿と新約聖書、ちり紙、小石3個、日記3冊、帝国憲法と「マタイ伝」の合本であった。9月に密葬が足尾銅山運動の拠点となった寺院で行われ、10月に本葬が天台宗寺院で行われた。多くの参列者が正造の死を悼んだ。

 正造にキリスト教の影響があることは疑いなく、正造のなかにキリストの姿を見る著者の主張には説得力がある。著作や書簡に聖書からの引用が多く見られるからだ。だが一方で、正造に一つの宗教にとどまらないヒューマニズムや普遍性を認めることも可能だ。キリスト教にこそ入信しなかったものの、正造を支えたのは聖書におけるイエスの生き方そのものだったのだろう。また、著者が指摘するように、近代文明観に対する正造の異議申し立てが、「現代に預言的な響きをもって聞こえてくる」のも確かだ。技術革新と開発が人類に豊かな未来を与えるといった「近代的」な考え方に、正造はキリストを思いながら対抗し、闘ったといえよう。

【3,520円(本体3,200円+税)】
【一麦出版社】978-4863251427

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