【書評】 『「春」はどこにいった 世界の「矛盾」を見渡す場所から』 酒井啓子

 「アラブの春」と呼ばれた大規模反政府デモと民主化運動から10年の月日が流れたが、あの「春」はどこにいったのか。中東政治を専門とする著者が、雑誌『思想』や『現代思想』『みすず』に掲載された論稿に書き下ろしを加えた計16本で、「アラブの春」が「冬」と呼ばれるまでをたどり、巨視的に微視的にあの「春」が何であったのか問い直す。

 「アラブの春」のきっかけとなったのは、チュニジアのひとりの青年の抗議だった。

 「二〇一〇年―二月、チュニジアの地方都市で、ムハンマド・ブーアズィーズィーという青年が自殺したことから、それは始まった。〔…〕この焼死が、チュニジア社会に火をつけた。そもそもブーアズィーズィーのような、不安定な生活を余儀なくされた若者は、チュニジア社会にたくさんいる。社会経済的な不満の高まりが、四半世紀の長きにわたって政権の座を独占してきたべン・アリー大統領の治世に向けられた。失業、物価高、政権の腐敗を糾弾するデモが各地で繰り広げられ、焼身自殺から一〇日後には抗議行動が首都まで広がった。年末までには全土で数千、数万の人々が路上での抗議を展開するようになり、追い詰められ たベン・アリー大統領は、年明け一月一四日に国外に脱出した」

 これはチュニジアだけの政権転覆にとどまらなかった。長期政権による腐敗と汚職が蔓延する状況はほかのアラブ諸国とも共通するもので、チュニジアという一角が崩れたことで、「倒そうと思えば長期政権も倒せるのだ」という認識が瞬く間に周辺諸国に広がった。チュニジアでの政変は「ジャスミン革命」と呼ばれたが、周辺諸国へと広がりを見せたことで、その流れは「アラブの春」と名づけられた。

 なかでもその影響を強く受けたのが隣国エジプトで、翌年2月にムバーラク大統領は辞任を余儀なくされた。反政府デモは北アフリカの西方向にも波及し、リビアでは42年間個人独裁を敷いてきたカダフィ大佐に対する抗議運動が激化した。モロッコやオマーン、ヨルダンなど、反政府活動が刺激された結果、限定的ではあるが政治改革が進められた国もあった。

 「だが、チュニジアやエジブトのように、すんなり政権交代が行われた国は、少なかった。リピアやイエメンでは政権を倒すところまでは行ったが、その後が混乱した。リピアでは二〇一一年八月にカダフィが殺害されたことで政権が瓦解したが、リピア国民評議会が暫定政権として成立したものの、その後諸政党が分裂、対立を繰り返し、内戦状況となった。国土は東・西・南と大きく三つに分断され、周辺諸国や大国からの介入を受けて内戦が激化、さらには『イスラーム』国(IS)などの暴力的過激集団が拠点を形成する無法の地となった」

 内戦で甚だしい混乱に陥った国としてはシリアが挙げられる。シリアのアサド政権は、抗議運動の盛り上がりのなかで国際社会の介入を受けて代理戦争の場となり、勢力を強めたISによって暴力と破壊の渦に投げ込まれた。ISの出現は隣国イラクや中東全域、さらには欧米やアジアを含んだ全世界へと恐怖を拡散させた。

 発生当初は「春」と形容されたアラブの民衆蜂起は、やがて「アラブの冬」と呼ばれるようになった。「アラブの春」によってもたらされたのが結果的に内戦と過激派の台頭だったからだ。「春」の平和的な路上抗議運動のイメージは後退し、もっぱら暴力的なイメージで語られることが多くなった。特に、ISに代表されるように、「春」はイスラーム主義勢力の支配、イスラーム過激派の暴力を連れてきたと、現在では否定的な印象で論じられるようになったと著者は述べる。

 だが、「春」は決して無くなってしまったのではない。かつての「春」をver.1とするならば、ver.2に相当する路上抗議運動のうねりが起こっている。この「春」ver.2においては女性の活動が大きな特徴となっている。

 「ところで、『春ver.2』のもうひとつの特徴として、女性のプレゼンスがある。スーダンでの反バシール抗議運動では、真っ白な外套を身にまとってデモ隊を先導する女性の姿が象徴となった。建築学を学ぶ二〇歳代の大学生が群衆に向けて演説する姿が、数多くのデモ参加者によってツィートされ、国内外の視聴者に瞬く間に拡散されたのだ(『ワシントン・ポスト』紙、二〇一七年四月一〇日)。イラクの反政府抗議運動では、女子高校生が大きなイラク国旗を振り回しながら行進する写真に、『イラクのジャンヌ・ダルク』という書き込みがなされて、SNSで広まった。こうしたデモ会場での女性の活躍はver.1のときもしばしば見られた。〔…〕『女性の解放』は、路上抗議運動によって提供された解放空間が生んだ産物と言えるかもしれない」

 しかし、その後女性たちがたどった道は険しかった。デモ隊鎮圧のための暴力に、男性同様女性もさらされ、女性の尊厳も守られなかった。女性に対するハラスメントや暴行は、「春」ver.2を契機に増えているのが実情だ。

 「ISは、イラクでは二〇一七年末、シリアで一も二〇一九年春にはほぼ支配地域を失い、拠点は掃討された。だが、IS後の社会の立て直しは進んでいるとは言いがたい。なかでもIS支配下で凌辱された女性たちの苦境には、ほとんど目が向けられない。さらには、ISの非道も問題だが、そこには女性に対する暴力を容認する現行の法制度が障害になっていることも忘れてはならない」

 反抗する女たちに対して、「男社会」の支配層は容赦がない。だが、このような状況下でも女性たちは声を上げ、互いにエンパワーメントし支えあっている。さらに、負傷者の支援を行う医療現場には女性の姿が数多くみられる。著者は詳細なルポをふまえてこう結ぶ。

 「女性たちは長らく、社会的権利を奪われるばかりでなく、その身体そのものを支配されてきた。医療や美容、スポーツに携わる女たちは、他者に支配されてきた女性の身体を、自分自身で解放し、女性自身の手に取り戻そうとしている。それだけではない。女たちは、その技術で、負傷した男たちを守っているのだ。男に対して、『守って』というのではなく。

 『春』は女の顔をしている。それを『冬』へと導いたのは、力に頼るしかない『男社会』だ」

 女性たちが懸命に厚い壁を壊そうと敢闘している中東諸国を、遠い国の話とばかり思ってはいられない。人権を尊重する気運を世界的に高めていくことはどこにいてもできる。季節は再びめぐってきたのに、「春」はどこにいったと嘆くしかない人々に思いを寄せたい。

【4,180円(本体3,800円+税)】
【みすず書房】978-4622095309

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