【書評】 『政治と宗教 統一教会問題と危機に直面する公共空間』 島薗 進 編

 昨年、にわかに注目を浴びた統一協会問題。日本における政治と宗教の歪んだ関係を民主主義や公共空間の危機として捉え、多角的に考察する論文集が出版された。各分野における5人の識者が日本と海外の政教関係について分担執筆。政教分離の原則と信教の自由、宗教団体の社会への関与など、再燃したイシューを考える。

 「公共空間(公共圏)とは、多様な利害や価値観、世界観をもつ個人や集団が共存しつつ、共通の社会を構成しているという前提のもとに、開かれた討議と合意形成に参加していくような社会空間を指す〔斎藤、二〇〇〇〕。近代以降、民主主義へと向かう社会においては、政治的意思決定は公共空間を前提として行われる。宗教もかつての国教のように、他を排除する独占的な権威をもつものではなくなる。これが近代の立憲政治体制とともに成立する『政教分離』の理念である。だが、これはある種の世俗主義が考えるように政治はまったく世俗的なものであり、宗教が関与してはならないということを意味するものではない」(序章「公共空間における宗教の位置」島薗進)

 統一協会問題における重大な論点の一つは政治家・政治集団とのもたれ合いの関係だ。被害者や被害者を支援する弁護士らは、統一協会にお墨付きを与えないよう、たびたび与党政治家に要請してきたが、是正されることはなかった。さらに、政権によって「忖度」を迫られたメディアまでもが沈黙。民主主義は危機に瀕していたといえよう。そこに「銃弾」が撃ち込まれた。

 「安倍政権は、不都合な報道にクレーム電話を入れ、キャスターを更迭するよう圧力をかけ、 放送法を盾に停波をちらつかせ、メディアを抑え込んできた。行政機構についても、内閣人事局で官僚機構を完全にコントロールしただけでなく、警察の捜査も恣意的に抑え込んできた。司法に対しても人事を通じて介入したり、忖度させたりしていると考えずにはいられない。批判的な国民をすら『こんな人たち』と敵視してきた。このような、社会に分断を作り出し、敵を容赦なく叩くことで支持を固めるやり方は、カルトのそれとよく似ている。その頂点に君臨する全能な中心人物が突如いなくなったことで、タブーが緩んでいるのがいま、まさにこの銃撃事件後の状況なのではないだろうか」(第2章「統一教会と政府・自民党の癒着」中野昌宏)

 宗教と政治の問題含みの関係は旧統一協会にとどまらない。創価学会、神社本庁、日本会議に所属する諸教団もその政治性のあり方が問われている。第3章「自公連立政権と創価学会」で中野毅は、20年以上も続く自公連立政権における公明党・創価学会側の利点と代償を挙げ、「様々な宗教者や宗教団体が公共空間へ参与していくことは歓迎すべきことである。その際には、社会の公共性への貢献、基本的人権の重視、自他の相互尊重、他者の自由の尊重などを大前提とし、公開性と透明性を確保することが不可欠であることを、改めて強調しておきたい」と論考をしめくくる。

 宗教団体による政治関与が問題視されるのは日本に限ったことだろうか。近代世界で政教分離や信教の自由の理念を先導してきたとみなされるフランスと米国についても取り上げ、2人の研究者が歴史的経緯をふまえて論じる。

 「フランスで二〇〇一年に制定された『反セクト法』が現在の日本で一定の注目を集めている。〔…〕

 たしかにフランスはライシテとばれる政教体制を敷き、それは厳格な政教分離の型に分類され、公的領域や公共空間からの宗教の徹底排除と理解されがちである。実際、『反セクト法』『ヴェール禁止法』を備えている国は、世界的にも珍しい。〔…〕

 だが、ライシテの基本法とされる一九〇五年の政教分離法は、良心の自由と礼拝の自由を保障するものでもあり、宗教が公共空間に現われるのを否定するものではないことを確認しておこう。『ライシテの国だから反セクト法が制定できた』という言明は間違っていないが、まさにライシテの原則ゆえに『セクト』の法的定義が不可能であることにも注意を促しておきたい」(第4章「フランスのライシテとセクト規制」伊達聖伸)

 「アメリカの政教分離は二〇世紀半ばに厳格化されたが、変化のひとつの起源は約一世紀遡った南北戦争にある。〔…〕二〇世紀半ばに至って、連邦最高裁判所は修正第一条と修正第一四条の両方を根拠に、宗教関連の州法への違憲判決を出すようになった。公立学校はとくに大きな影響をうけ、聖書を真理と前提した宗教教育や、集団での神への祈りが憲法違反として禁止された。政府機関を通じたプロテスタンティズムの影響が抑制され、政教分離がより徹底されたといえる。

 とはいえ、二〇世紀半ばには政教をむしろ近づけるかのような変化もみられた。東西冷戦を背景に、共産主義は反宗教的イデオロギーとして理解され、対するアメリカを宗教的国家として規定しようとするナショナリズムが強まった」(第5章「アメリカ―政教分離国家と宗教的市民」佐藤清子)

 移民により民族的宗教的に多様性が広がる一方で、アメリカでは福音派を中心にアメリカは「キリスト教国」たるべきだとの意見も根強く表明されている。彼らは政教の厳格分離や宗教的多様性の増大を否定的に捉え、それを覆すための運動を継続している。

 また、現在の日本では「宗教2世」問題への関心が高まり、親の宗教を強制された子どもたちの苦しみに共感が集まっているが、アメリカでの宗教の自由は真逆のベクトルで保障されていることに留意が必要だ。アメリカ憲法が保障する宗教の自由には、自分の信念のもと政府の介入を受けることなく子を養い、教育を施す親の自由が含まれるとされる。アーミッシュの家庭で通常より2年早く義務教育を切り上げたり、福音派家庭で子どもに非宗教的教育を受けさせたくない親がホームスクーリングを選択したりするが、これらは法的に認められた「宗教の自由」の範疇なのだ。

 なお、大統領就任式で歴代大統領が聖書に手を置き宣誓してきたことを根拠に、アメリカは「キリスト教国」だと主張される場合があるが、これはキリスト教徒の大統領が自分の宗教の聖典を使用しているために過ぎない。もしムスリムの大統領が誕生すればクルアーンが使用されるだろう。

 もちろん、宗教の社会への関与は問題ばかりを生んでいるわけではない。社会福祉の領域で宗教者(団体)の活動が多くの実を結んでいることは言うまでもない。政治的な面も含めた公共空間との関わりをどう展開するのが、宗教にとって幸せな選択になるのか。宗教を信じる・信じないにかかわらず、互いに視野を広げて、社会の中で宗教の果たすべき役割を考えていく必要がある。

【924円(本体840円+税)】
【岩波書店】978-4004319573

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