【書評】 『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』 杉田俊介

 「今、私たちマジョリティの男性たちは不安になり、困惑し、戸惑っているのではないでしょうか?」――そんな問いかけから始まる本書は、社会的、構造的多数派として常に批判される一般的男性に焦点を当てつつ、男性にとっての「まっとうさ」とは何かを探求した1冊である。

 構造的支配、既得権を得る側でありながらも、同時にそれらを自覚し得ない、どうすれば良いのか分からないマジョリティ男性(著者自身も)を主題にしつつ、近現代におけるジェンダー、フェミニズム、クィア論、さらには男性学、メンズリブ理論・運動などを概観する幅広い内容。理論的な内容でありながらも、『マッドマックス』『ズートピア』『ジョーカー』などの近年の映画作品を題材に、表彰される交差的で複合差別的な社会を具体的に読み解いてもいる。

 「マジョリティは日常生活のほとんどの場面で自分たちがマジョリティであるとことさら意識せずにすみます。そのこと自体が最大の特権であり、優位性なのです。それはしばしば『水の中の魚』にたとえられます。水の中にいることが当たり前であるならば、自分たちが水の中に住んでいること、自分の周りに水が存在することに気づくことも難しいのです」(第1章『多数派の男たちは何をどうすればいいのか』より)

 このような指摘はキリスト教界における「一般的」なクリスチャン男性にも当てはまる。それは人数的な多数派というだけでなく、構造的な男性優位性・支配性の事実に対する指摘である。本書は単なる無自覚なマジョリティ男性の批判に留まらず、批判される男性たちはどうすればいいのかを提案する。感情の反発や恐怖からミソジニー(女性嫌悪)に陥ることもなく、表面的にマイノリティやフェミニズムに憑依し(フリーライドし)自己正当化をするのでもなく、「男もつらいんだ」と言った被害者意識のみを振りかざすのでもない。「正しさや」「普通」でもないマジョリティ男性にとっての「まっとうさ」を考えていく。

 「ここでいうまっとうな男性とは、自分の中の性的違和を自覚しようとするquestioningな男性たちのことです。『別様の』多数派へと生成変化し続けようとする男性たちです。それはそのまま、他者の中のquestioningな葛藤や沈黙に対しても繊細な感受性を持ち、想像力を働かせようとすることでしょう。単なる同情ではありません。他者を想像するとは『傷つけられやすさ』の問題であり、『まっとうさ』の問題なのです」(第6章『多数派の男たちにとってまっとうさとは何か』より)

 そもそも「マジョリティ男性」とは定義し得るのか、彼らは困惑しているのか、男性的なまっとうさを問うことは、ますます構造的な男性性を固定化するのではないかという批判もあり得よう。しかし、無自覚なマジョリティであることを意識し、自覚的なマジョリティであろうとするための糸口を考える良書だ。

【1,020円(本体920円+税)】
【集英社】978-4087211825

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