【書評】 『土偶を読むを読む』 縄文ZINE 編

 『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(以下、『読む』)を知っているだろうか。独立研究者の竹倉史人氏が上梓したこの本は、2021年に出版されるや話題をよび、第43回サントリー学芸賞を受賞するまでとなった。土偶を「考古学×イコノロジー」という視点から考察し、遮光器土偶、中空土偶、縄文のビーナスとよばれる土偶(いずれも国宝)を、それぞれサトイモ、クリ、トチノミの精霊であると主張した革新性が評価されたのだった。見た目が類似しているだけでなく、それらの土偶が出土した地域で当該食用植物の組織的利用が認められるという点も論拠とされている。

 この『読む』に対しては、当初から専門知を有する研究者たちから厳しい批判が寄せられていた。にもかかわらず昨年4月、『土偶を読む』を子ども向けに再編集した『土偶を読む図鑑』が小学館より出版され、5月には(まるで予定されていたかのように)全国学校図書館協議会選定図書に選定された。小中学生であれば、縄文時代について初めて触れる本がこの『土偶を読む図鑑』になる場合も多いだろう。さらに『読む』の次回作も準備されていると伝えられる。

 このような状況を憂慮した識者が集まり、『読む』の検証を行ったのが『土偶を読むを読む』(以下、『読むを読む』)である。すでに竹倉氏の主張に対しては、当該分野を専門とする研究者が論文という形で誤謬を指摘しているが、一般の人には届きにくい。そこで『読む』同様、一般にも手に取りやすく、かつ読みやすい文体で、雑誌「縄文ZINE」編集者を中心に執筆・編集されたのが本書である。

 本書は大きく二つのパートで構成。前半には『読む』の検証、後半には考古学関係者へのインタビュー、対談、論考が収められている。検証にあたっては、イコノロジー(見た目の類似)、編年・類例、該当食用植物の利用という項目を挙げ評価する。また、頭から竹倉説を否定するのではなく、著者の言い分をふまえた上で客観的に妥当性を検討している。

 「『土偶は縄文時代の食用植物をかたどったフィギュアである』は、『その視点は面白い』 。イコノロジーを出発点にすることも面白い。イコノロジーという西洋絵画を読み解くために考えられた方法論(パノフスキー2002)が、文献などのない縄文時代にどれだけ適用できるかの興味もある。そのこと自体を批判している研究者は筆者の知る限り誰もいない。

 しかし、その説を裏付けるためにあげられているデータ、論拠としているデータは、この二つの土偶を見ただけでもかなり恣意的なものに思える。……不確かなデータも載せられている。だから『イコノロジー×考古学』と銘打っているほどに考古学の視点があるのかは疑問だ。冷静に見て『謎を解いた』はやはり言いすぎだ」(1「中空土偶(カックウ)、合掌土偶」)

 竹倉氏は「みみずく土偶」の章で、「モチーフ推定の際に、こうしたシンプルな造形をみみずく土偶の原型(プロトタイプ)とみなし、装飾性の見られるものはその『亜種』として設定した」と述べているが、そのような手法は美術の手法としては妥当性があるのかもしれないが、他分野にそのまま応用できるのだろうか。考古学においては編年による形態変化や、発掘での層位、放射性炭素年代測定などの手法を駆使して、時間と空間の「物差し」をつくっている。こうした手法の積み重ねによって土偶の編年も精緻に整備されているのだ。地域と時代によってどのような型式の土偶が作られていたか、その前後関係や空間的な広がり、文化圏の研究は、一般の人が思うよりはるかに多く蓄積されている。

 「例えばどんな手法を使った考察であっても、どこかのクイミングで編年に照らし合わせる作業が必要になる。特に土偶にモチーフを求める『土偶を読む』の研究では、土偶の編年による形態変化はことさら重要な要素になりうるもので、それを考慮に入れていない考察は、厳しい言葉で言えばただのオカルトでしかない……。iPhone11よりも前にiPhone13が発売されることがないように、土器にも土偶にも時期的な順序がある。編年とは考古学を考える上での、基礎的で、避けて通れない、しかし、きちんと使えば便利な物差しになる客観的なツールなのだ」(2「ハート形土偶」)

 『読む』で竹倉氏は、何人かの専門家に自説を披露し、お墨付きを求めたが、ほとんど相手にされなかったと吐露している。サントリー学芸賞の選評では、そうしたことを「専門知」への挑戦、「問題提起の中核」として捉え、評価している。また、いくつかのメディアは、竹倉氏が専門家でないことが問題視されていると声高に言う。しかし『読むを読む』の編者によれば、竹倉氏が専門家でないことを問題視する研究者は見当たらない。「どんなジャンルのどんな人物でも縄文時代や土偶を研究し、それをまとめることに制限はない」が、学問であれば、考古学に限らず、どの分野であっても厳しく精査されるのが当然のことであると。

 『読むを読む』の最後をしめくくる論考で、菅豊(東京大学東洋文化研究所教授)は「専門知批判は専門知否定であってはならない」と釘をさす。20世紀末から、多様な人々が同じ立場で協働し、研究していくというパブリック・アーケオロジーが提唱されたが、そこで考古学者以外のその他の人々との解釈が異なる場合、どのように考古学者は対応すべきかが議論された。非専門家が考古学的に間違った解釈をしている場合、考古学者がとりうる対応としてもっとも「薦められない」のが、「相手にしない」というもの。竹倉氏の事例は、これに当たる。しかし、もっとも地道な「解釈の誤りを指摘して、訂正していく」という選択肢は、実際にはなかなかとりにくい対応だ。

 「確かに、『解釈の中の誤りを指摘して、訂正していく』という 地道な対応は、誠実ではあるがそれには大きな犠牲や代償が伴い、身体的、精神的負担が強いられる。

 ……たとえば『土偶を読む』では、通常の学術書でとられるアカデミック・ライティングと異なる独特の文体やレトリックが用いられ、また独特の論証手法と論理展開によって導かれた新説が纏められているが、そういう本を読んで一つひとつ検証したり、論評したり、反論したりすることには、大きなコスト(時間や労力)がかかる。しかしその反証から得られるはっきりとしたベネフィットは思いつかない。……また著者竹倉は、考古学者たちから専門的なアドパイスや、あるいは『墨付き』をもらおうと、大胆にも縄文研究者たちにアポを取り、彼らに自分の研究成果を見てもらうことに挑戦したという。しかし残念なことに、誠実な対応をしてくれた縄文研究者はごく僅かで、大半はコメントしようとしなかったという。竹倉は、多くの縄文研究者たちが対応してくれなかったことや、コメントしてくれなかったことを難ずる表現をしているが、しかしここでは、専門家のアドバイスやお墨付きをもらおうとした、その行為の妥当性についても検肘しなければならないだろう」(菅豊「知の『鑑定人』」)

 本書が、『読む』への反論といった次元に留まらず、どうすれば専門家と非専門家の壁を低くし、パブリック・アーケオロジーの議論空間を作り出せるのか、模索のきっかけになることを願う。なお、『読むを読む』は『読む』を前提としているが、『読む』を読んでいなくても十分理解できる。

【2,200円(本体2,000円+税)】
【文学通信】978-4867660065

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