【記事広告】日本における葬儀の変化とキリスト教葬儀がもたらす可能性 ―対談― 島田裕巳(宗教学者/作家)×大和昌平(東京基督教大学教授)

 これまで日本の葬儀といえば、仏式で行うことが一般的だった。しかし、近年、火葬のみという「直葬」が大幅に増え、葬儀の形が変わりつつある。このような状況下において、日本でキリスト教葬儀を展開していくことはできるのだろうか。葬儀に造詣が深い二人の宗教学者が、その可能性について語った。

島田裕巳
 しまだ・ひろみ 
1953年東京生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究課博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は作家、宗教学者、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)など多数。『葬式は、要らない』は30万部のベストセラーになる。

大和昌平
 やまと・しょうへい 
1955年大阪生まれ。関西大学法学部政治学科卒業、東京基督神学校卒業、佛教大学仏教学科卒業、同大学院文学研究科博士課程修了。1984年から15年間、福音交友会京都聖書教会で牧師として献身。現在は、東京基督教大学教授、同大学神学部部長、同大学副学長。仏教とキリスト教の比較研究、日本思想史におけるキリスト教, 日本における葬送儀礼を研究する。主な著書に『牧師が読みとく般若心経の謎』(実業之日本社年)、『世界の宗教ガイドブック 「神」を求めた人類の記録』(共著、いのちのことば社)など。

映画「エンディングノート」からキリスト教葬儀を考える

司会 本日は、日本におけるキリスト教葬儀の可能性ということで、お二人の先生をお招きし、それぞれの立場でお話をお聞きできればと思っています。はじめに、クリスチャンではない島田先生にとってキリスト教葬儀は、どのようなイメージでしょうか。

島田 キリスト教葬儀と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、『エンディングノート』(2011年、砂田麻美監督)という映画です。監督のお父さんが病気になって、亡くなるまでの過程を描いた記録映画ですが、そのお父さんが、クリスチャンではないのに、なぜかキリスト教で葬儀をあげたいと言い出すんですね。

 その理由を本人は、「キリスト教式は安い」からと言うのですが、映画を見ていて果たしてそれだけなのかなと。確かに、仏式の葬儀は高くキリスト教式だったら安いというイメージはあるのですが。この映画は、葬儀とキリスト教を結びつけて考える一つのきっかけになったと思っています。

大和 この作品は、私も興味があって大学の講義でも使っています。団塊世代のモーレツサラリーマンだったお父さんが、がんになり、自分なりの意味のある死に方をしたいということで、以前見かけたイグナチオ教会を葬儀の場に選ぶんですね。キリスト教式の結婚式は、ファッション的なこともあってか普通に定着しているのですが、葬儀はなかなかそういうわけにはいきません。私としては、「あの街の、あの会堂で葬儀をやりたい」ということで、葬儀に関してキリスト教式が広がっていったらいいな、とこの映画を観て思いました。

キリスト教葬儀は地上での最後の礼拝

島田 そもそもキリスト教式の葬儀というのは、どういう位置づけで、どういう意味内容を持っているのですか。

大和 地上での最後の礼拝です。礼拝堂に棺を置き、最後の礼拝をし、地上でのお別れをするというのが基本のキリスト教葬儀です。牧師は、故人の生き様やキリスト者としてどのような信仰を持っていたかを故人が好きだった聖句から伝え、地上での最後の礼拝を共にします。その後、参列者が前に出てきて、棺の中の遺体を「お疲れさま」という思いを込めて花で飾り、その棺を賛美歌を歌って送り出す、というような内容です。

島田 プロテスタントとカトリックの違いはありますか?

大和 儀式の方法に多少違いはあると思いますが、最後の礼拝という点において変わりはありません。植村正久牧師が訳した「天に一人を増しぬ」というセラ・ストックの詩がありますが、最後に「主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を我らすべてにも与えたまえ」とあります。このように「また会いましょう」という思いで、礼拝をするというのが基本ではないかと思っています。

司会 死者崇拝の要素が大きい仏式葬儀と、死という現実を見てキリストを見上げていくというキリスト教葬儀とでは、その違いはやはり大きいのでしょうか。

島田 違う部分と同じ部分があると思います。一般的に仏式の葬儀では読経が行われますが、お経は釈迦が説法した内容ということになります。だから、お経を唱えるということは、釈迦の説法を再現するということであって、直接死者を送ることにつながっているかというと必ずしもそうではない。そういう点では、礼拝と共通している部分があるのではないでしょうか。

コミュニティの崩壊と葬儀の変化

司会 最初に『エンディングノート』の話がありましたが、あの映画によって、今まで通りの仏式のスタイルではない1つの生き様というのが共感を呼んだように思います。そこで仏教的なスタイル、キリスト教的スタイルと言ったときに、今後、日本人の葬儀に対する考え方が変わっていくのでしょうか。

島田 歴史的に考えた方がいいと思います。日本の葬儀というのは、特に村社会の中では非常に重要で、埋葬に至るまでコミュニティの1つでした。キリスト教の話を聞くと、やはりコミュニティですよね。キリスト教徒ならキリスト教式でほとんど埋葬され、その人たちは、牧師なり神父なりと、生前から深い関係にある。まさに村社会のコミュニティです。

 今、都市の仏式葬儀では、ほとんどお坊さんとの関係はありません。大抵は葬儀社を通して、お坊さんを依頼するわけですからお寺とは全然関係ないわけです。集まってくる人も故人とは関係があるけれど、その人たち全体がコミュニティを作っているわけではありません。そこに現在の仏教式とキリスト教式の葬儀の大きな違いがあるように感じます。

大和 檀家制度に縛られたことで、オプションがなく、仏式葬儀が継承されてきたように思います。今では、都市で暮らす人のほとんどがお寺との関わりがなく、お寺で葬儀をすること自体が崩れてきています。また、高齢化が進む中では、葬式に何百万円もかけたくないということで、直葬を選ぶ人も増え、特に東京では急増しています。共同体での葬儀というものが都市では壊れ、そこに新たに直葬という葬儀の形が現れたと感じています。

島田 日本は農業中心で、確固たるコミュニティがあったから、村制度が進展し、寺請制度も浸透したと言えます。明治になると、村社会は制度としては廃止されました。しかし、慣習としての檀家制度は戦後になるまで継続されてきた。その中では、仏式で葬られることに疑問はなかったわけです。

 葬儀後も、何年にも渡って法事などがあってお寺との関係が続き、お寺を介してのコミュニティが生きていたんですね。ところが、戦後、都市化が進み、そういったコミュニティは崩れてしまった。地方でも、葬儀は今ほとんど葬祭会館でやっていて、葬式というイベントになってしまいました。そういう意味では、共同体としての葬儀の意義は薄れて、参列者の多い一般葬は減り、簡略化が進んでいくというのが現状ではないでしょうか。

司会 実際、近年では直葬の葬儀がかなり増えていて、関東では30%くらいです。コミュニティが崩壊する中、今後は、家族葬も縮小し、直葬というのが増えそうな気がします。

弔いのない社会に残る大きな不安

島田 現代は、人が死んだという事実自体も共有されなくなっています。NHKの大河ドラマでも、重要な人物の死をナレーションだけで伝え、実際死ぬ場面はやらないことが話題になっていました。現実でも、死んでも葬儀をやらない、身内だけですませるという葬儀が多いわけですから、故人を知る人たちに死んだことが伝わって来ない。死という出来事、葬儀という出来事が、完全にその家や故人の周辺のプライベートな出来事になって、付近の人たちには関係のない出来事になってきているように強く感じます。

大和 東日本大震災で、津波に流されてしまった遺族のために、牧師が海に向かって思わず十字を切ったそうです。プロテスタントが十字を切ることは普通しないのですが、その行為だけでも遺族は非常に慰められたそうです。

 人が死ぬということの重さを考えると、ある意味、大仰な儀式をして別れないことには残された人は先に進んでいけない。ですから、「弔う」ということは、宗教に関係なく必要なことであって、それをしなくなった社会というのは、深いところに不安が残っていくのではないかと考えています。共同体が崩れていく中で、葬儀が形骸化し、きちんとした別れをしないことの怖さのようなものを感じるのですが。

再会の希望が慰めを与えるキリスト教葬儀

島田 やはり問題は、残された家族の心の整理がつかないうちに葬儀が行われることだと思います。東日本大震災では、予期しないことですから遺族にはダメージが大きかったはずです。その場合、宗教的な葬儀によって、遺族の心を癒せるのかが問題で、キリスト教葬儀の可能性を考える上で一番大きなポイントではないでしょうか。

大和 キリスト教の葬儀というのは、命の創造者の元に帰るという安心感なんですね。死を超えた安心感、それが私たちキリスト者の信仰です。葬儀にクリスチャンでない人がいらした時も、そういった安心感を得るというのをよく聞きます。

 「クリスチャンは、祈りばかりしていて弱そうに見えるけれど、人が崩れそうな時に崩れないんですね。こんな死に方があるんですね」といったことも耳にします。また、初めてキリスト教に触れた人から、「こんな素敵なお葬式があるんですね」と言われたこともあります。

島田 どういうところで感じるんでしょうか。

大和 聖書の最後の約束で、体をもって復活することが書かれています。そこには再び会える希望とともに、もっと大きな人生が先に用意されているという希望があります。そういったことが、葬儀の時にも表れてくるのではないかなと思います。地上での和解とともに再び会えるという信仰、希望ですね。それが遺族や参列者に慰めを与えるのではないかという思いはあります。

島田 そこで思い出したことがあります。私が宗教学の師と仰ぐ岸本英夫先生です。元々はクリスチャンだったのですが、途中で信仰を捨てたんですね。1954年にアメリカのスタンフォード大学に客員教授として招聘されていた時に、頭部に悪性の腫瘍が見つかり定年前に亡くなりました。先生は、クリスチャンでない自分がどうやって死と向きあっていけばいいのか、ずっと考え続けていました。

 先生の『死を見つめる心』(講談社)という本を通して、一人の宗教学者の生き様のようなものを学びました。死には、本人にとっての死、家族にとっての死というものがあると思います。がんなどにかかって死に直面し、死んでいく時に、クリスチャンのように死を考えることができるかが、今考えるべき重要なことではないでしょうか。

教会を魂や命の問題に向き合える場所に

司会 日本社会で葬儀が簡略化し、直葬というものが増えていく中で、キリスト教がコミュニティを発信していくことは可能でしょうか。

島田 コミュニティという要素と、本人の死の覚悟というところが重要かなと思います。ポール・シュレイダー監督の『魂のゆくえ』という映画があるのですが、ニューヨークの小さな教会の牧師が主人公です。興味深いのは、アメリカだと主人公が牧師で、死に直面する映画が作れるわけです。日本だとお坊さんが自分の死に直面して、魂のゆくえを考える映画はできないように思うんですね。そこにキリスト教と日本の仏教の大きな違いがあるかなと。

司会 キリスト教の方が、死について問い掛けやすい場所なのかもしれないですね。

大和 東京基督教大学の葬儀研究会では、共同体が壊れていく時代に、教会は人口の1%のクリスチャンの葬儀をやるだけではなく、もっと地域の中に入って、孤独死を出さないようにいろいろな人と接点を作っていくことが課題となっています。これは、葬儀以前の問題です。地域の中で困難を抱えている人たちにとって、教会が魂や命の問題に向き合える場所であれば、『エンディングノート』のお父さんのようにキリスト教葬儀で送ってほしいと思う人が起こされるのではないかと考えいるところです。

司会 お二人の話を聞いて、人間関係が希薄化する日本社会において、キリスト教が、死をキーワードにどんどん地域社会に関わっていくことが求められている時代に突入していると感じるのですが。

島田 今、高齢で亡くなる人と、若くして亡くなる人が二分する形になっている中で、後者が病気などで死に直面した時に、どう死を受け入れていくかというところに宗教の本質みたいなものがあります。ただ、それはどの宗教においても、そういう力を持ち得ているとは限らない。仏教の葬儀では、僧侶が葬儀の中で一番高いところにいて、今の感覚からするとすごく矛盾している。そういう仏式葬儀というものが、突然死に直面した人にとって意味のあるものになりうるかというと結構難しい。だから、そこは仏教がキリスト教から学ばなければならない点かもしれません。

司会 牧師は、どちらかというと、亡くなった家族に仕えるという立場にありますから、こういったところも、牧師を主人公に映画を作ったほうがドラマチックになるのかもしれません。対談の中で、今後必要になることや、実践したいと思うことはあったでしょうか。

大和 島田先生とお話しして気付かされたことは、キリスト教会は自分たちの共同体の中だけで生きていて、それでは葬儀ということを考えたとき限界があるということです。まずは、いろいろな人が集まれる場所、行き場のない人が来ても大丈夫な場所であることが、教会が地域に仕えるといった時に大事ではないか。人を丁重に葬ることは、キリスト者でなくてもできることです。そのことを知ったうえで、地域の中で私たちが深く関わって、本当に仕えていく中で新たな出会いが広がっていったらいいな、ということを改めて思わされました。

司会 今回は、あえてクリスチャンではない島田先生をお招きしてお話をうかがいました。宗教学者としていろいろな宗教を研究している立場から、今回の対談も含めて、終活とか、葬儀とかを外から見て、教会やクリスチャンに「こうしたらいいのではないか」というような応援メッセージをお願いします。

島田 昭和天皇が亡くなったときに、カトリック中央協議会が「天皇が天に召された」という文章を出しました。その時に、キリスト教からみれば、天皇であろうと、一般の信徒同様に、神によって天に召されたという考え方をすることに衝撃を受け、ある意味、そういう姿勢でいいのかなと思っています。ですから、信者・未信者と分けずに、宣教布教活動の一環として、あえて未信者の葬儀を引き受ける試みがあってもいいのではないでしょうか。それがコミュニティの中で、一人で死に直面して死んでいく人の慰めへと通じていくし、それは仏教以上にキリスト教の方がやりやすいような気がします。

司会:「終活STYLE」編集長 野田和裕
ライター:坂本直子
*「終活STYLE」第2号より転載

【告知】史上初!キリスト教目線から考える終活の祭典
 「ライフエンディングフェア2019」開催決定!!

/ 昨今の超高齢化社会、2025年問題をうけて『終活』が広く一般に浸透 されるようになりました。しかし、クリスチャンとしてどのように終活を“カタチ”にしていけばよいのでしょうか。
 私は、その答えは長らく教会の終活への関わり方の中に答えがあると考えてきました。しかし、個々の教会での取り組みだけでは、まだ十分とはいえません。日本社会全体で、いかにしてクリスチャンとしての終活をカタチにしていくのかフォーカスしていく必要があります。
 その第一歩として、これまで実現されてこなかったキリスト教目線からの終活にスポットをあてた展示イベント「ライフエンディングフェア」を2019年10月に開催を決断するにいたりました。
 これからも終活からの日本宣教につながるよう尽力してまいります。10月にみなさまと会場でお会いできることを楽しみにしております!!

株式会社 創世 ライフワークス社 代表取締役 野田和裕

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