【映画評】 〝群衆〟の鮮烈、沈黙とそのリアル。 セルゲイ・ロズニツァ《群衆》ドキュメンタリー3選『国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』 2020年11月21日
スターリンの死。
その独裁初期における粛清裁判。
そしてホロコーストを記憶する場の現在。
これら三つの主題へ迫る、セルゲイ・ロズニツァ監督ドキュメンタリー3作がこの秋公開される。ウクライナ出身のロズニツァ監督は近作十作がすべて世界三大映画祭に選出され、うち二作でカンヌ国際映画祭の栄冠を勝ち獲った鬼才ながら、その日本公開は今回が初となる。
『国葬』は、1953年のスターリン葬儀へ集う共産圏各国の指導者や、群衆をなす個々人がふと漏れ見せる仕草や表情を映しだす。プロパガンダの意図から外れたそれら人間群像のきらめく片鱗を、ロズニツァがあざやかに現代へとすくい上げる。その最期を報じるラジオに耳を傾ける人々。厳粛な言葉のみを連ね、「偉大なる指導者」を讃える放送の肩肘張った女性の声音はどこか、今日の北朝鮮国営テレビを想わせる。都市部のみならず、カフカスの峰々やシベリアの雪原、モンゴルの草原を背景にたたずみ黙す人々の姿は、1945年8月15日の玉音放送にうつむいて耳を傾ける人々の光景へと精確に重なり映る。
いずれも硬直した沈鬱な面持ちから窺えるのは、なにも英雄的指導者像を素朴に受け入れた人々の弔意ばかりではない。革命後の混乱を収め、酸鼻極まるナチスとの戦いをくぐり抜けた統治者が不在となった明日に対する底深い不安の昏さと、スターリンの遺体を包み込む敷布の真紅や花々の原色とのコントラストはあまりにも鮮烈で、〝1953年3月5日〟が放つ超重力に戦慄する。
また本作では表情や仕草を仔細にとらえる映像はもとより、音の明瞭さも強烈な印象をあとに残す。今回ロズニツァが採用した素材には、37時間の映像記録のほか、国営ラジオ放送による28時間にも及ぶ音声アーカイヴが含まれるという。これらの大部分が人知れず眠っていたことに驚かされる。
『粛清裁判』が映しだすのはスターリン独裁初期の1930年、クーデターを企てた“産業党”疑惑をめぐる法廷の光景だ。ロズニツァが掘り起こしたモノクロームのフィルムは、当局捏造の「事実」を演じる8名の被告と法曹人や、傍聴する人々の姿を質実に捉えている。この見せしめ裁判において、実在しない産業党の陰謀を告白する被告、問い詰める検事や険しい表情を浮かべる傍聴人、路上デモにより糾弾する群衆が総体として醸す茶番の白々しさと滑稽さの後ろ手で息を潜める、大粛清の兆しに震撼する。
「独裁の時代、われわれは四方八方から敵に包囲されていたため、時として不必要な優しさ、不必要な慈悲心を見せたこともあった」 ――《産業党裁判》でのクルイレンコ検事の演説(ソルジェニーツィン 『収容所群島』)
『粛清裁判』に映りでる被告らのなかには、嘘の自白により極刑を免れた人物もいるものの、多くがのち全財産没収や公民権剥奪のうえ、結局は銃殺の最期を迎えた。このとき検事席についたクルイレンコもまた、のち反政府活動の容疑で銃殺されている。法廷の空気を占めるこうした暴虐の気配は傍聴する群衆の表情を強張らせる。きつい目線のほかは冷えて固まったようなそれら顔面の硬直ぶりと、幾度も挟み込まれる路上デモのシークエンスで被告らを糾弾し気炎をあげる群衆の熱狂ぶりが描くコントラストはあまりにも鮮烈で、この鮮やかさにこそロズニツァの研ぎ澄まされた技量がよく顕れている。
硬直と熱狂。合わせ鏡のように対する群衆のふたつの姿の狭間に潜む、何者かの息吹へ耳を澄ませる。
収容所、ナチス、ホロコースト。
映画『アウステルリッツ』は、いまや観光地と化したベルリン郊外ザクセンハウゼン強制収容所のある夏の日を映しゆく。惨劇を記憶する場で人は集団ごとガイドに従い、順路通りに歩み進む。牢獄、ガス室、焼却炉。その風景の、まったきリアル。スマホで話し続ける女、こちらへカメラを構える男、ペットボトルで遊びだす少女、空を見あげる少年。ただ見据える視線の沈黙。
かつて筆者は、ダッハウ強制収容所を訪れたことがある。ヒトラーが若き日を暮らした町ミュンヘンの郊外に位置するその場所を、まさに『アウステルリッツ』が映しだすような観光客の一人として訪問した。暴虐の爪痕そのものである展示物や復元保存された諸施設の禍々しさもさることながら、無数に立ち並んでいた収容棟の跡地が空き地のまま維持された広大な敷地を、とぼとぼと歩く心地のやる瀬なさ、寒々しさを強烈に記憶している。『アウステルリッツ』の後半部に、極めて強い既視感を覚える場面があった。本作はザクセンハウゼンを撮ったものと事前に読んでいたため、既視感はナチスによる規格化ゆえの酷似由来とはじめ考えた。しかし鑑賞後にダッハウも撮影されていたと知った瞬間、みる者とみられる者をめぐる筆者の立場は反転した。
W・G・ゼーバルトの小説『アウステルリッツ』では、ユダヤ系建築史家アウステルリッツの特異な生涯が語られる。この文学作品をタイトルの由来としたロズニツァの含意は深い。1960年代にアントワープ中央駅で〝私〟と出会ったこの建築史家は、駅や鉄道、要塞や裁判所に関する蘊蓄を縷々語りゆく。観光客を集約的に観光地へと運搬する今日の鉄道網こそが、かつて効率的に人々を絶滅収容所へと送り込んだ装置そのものであり、ナチスの崩壊後ソ連の収容所へと転用されたあともその場所では、引き続き大量の犠牲者が生み出された。降り注ぐ夏の陽射しの奥向こうに響き始める、ナチス〝後〟からの呼び声。
セルゲイ・ロズニツァの映画は、ある意味で観る者を鋭く試す。収容所内を歩き回る観光客を淡々と映す『アウステルリッツ』に退屈さを覚える観客がいることは想像に難くない一方で、ロズニツァの観察眼の在りように冷や汗さえかく者もまた多いだろう。日本の観客であれば、あるいは想田和弘による《観察映画》群を想起する向きもあるだろう。2年前の本紙インタビューで、想田監督はこう語った。
「ぼくのやっていることは、実際にはディティールを積み重ねていく作業なんです。見逃しがちな部分だからこそ見てほしい、と思えるものを大事にしています。例えば漁師ワイちゃんの、狭い船上での手さばきや目配りの凄さ。その逐一にワイちゃんの半世紀にわたる漁師人生が刻印されている。情報だけを伝えるなら30秒で済むものを、長い時間をかけて撮り、その一挙手一投足を映像として残しておくことがみんなにとって必要だという、それは使命感に近いものかもしれません。この作品を観たことによって、どういう受け取りかたをするのかは人それぞれで良いのだけれど、ここを見てくれ、というときの〝ここ〟を提供するのが映画作家であるぼくの仕事だと捉えています」(映画『港町』をめぐって)
「一挙手一投足」の映像の連なりをどう受け取るか。ロズニツァ映画を観る試みは、いやある種の映画を観る営みは基本的に、本編を観終え映画館を出たあとからこそ深化を始めるのかもしれない。膨大な映像アーカイヴから、特定の部位を切り取り集め、並び換える。『国葬』に映りでる仕草や表情、『粛清裁判』で選びとられるカットのひとつひとつにはむろん意味があり意図がある。「ロズニツァの含意は深い」とは先に述べた。ゼーバルトの小説『アウステルリッツ』は、19世紀末ロシア軍が拡張に拡張を重ねたカウナスの城砦が、結局一度の出番もないままリトアニア軍やドイツ軍の掌中へ陥落し、のちには監獄へ転用された経緯を記して終章を閉じる。監獄は「異常」な人間を隔離する。犯罪者、政治犯、精神病者、不法滞在者、少数民族。そしてかつては同性愛者、ハンセン病者。戦う相手を失った国家が内部の統制を維持するために必要な外部として、異常者の隔離勾留は統治の効率的手段となる。
観光地として公開されているアウシュヴィッツやダッハウ収容所の敷地は広大だが、複数の支部を抱えた往時の規模はその比ではない。それらのなかには今日、中東・北アフリカからの難民やホームレスの収容施設への転用例もあると聞く。声高に並べ立てられた訴求的言辞など、観る者を問答無用に圧する映像と音の前では無に等しい。ロズニツァ映画の言い知れない強さを、筆者は今このように受け取っている。あなたにはどう受け取られるのだろう。
過去が戻り来るときの法則が私たちにわかっているとは思いません、とアウステルリッツは続けた。けれども、私は、だんだんこう思うようになったのです、時間などというものはない、あるのはたださまざまなより高次の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、そのときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだと。そして考えれば考えるほど、いまだ生の側にいる私たちは、死者の眼にとっては非現実的な、光と大気の加減によってたまさか見えるのみの存在なのではないか、という気がしてくるのです。(ゼーバルト 『アウステルリッツ』)
『国葬』の荘厳、『粛清裁判』の滑稽、『アウステルリッツ』の白日。そこには、ソ連映画の伝統継ぐ全ロシア映画大学へ学んだウクライナ人セルゲイ・ロズニツァの、多重にして鋭利なまなざしの膂力が充ち溢れている。
みている私は、みられている。誰に、だろうか。(ライター 藤本徹)
11月14日(土)~12月11日(金)シアター・イメージフォーラムにて3作一挙公開。全国順次ロードショー。
セルゲイ・ロズニツァ《群衆》ドキュメンタリー3選
『国葬』 “Государственные похороны” “State Funeral”
『粛清裁判』 “ПРОЦЕСС” “The Trial”
『アウステルリッツ』 “Аустерлиц” “Austerlitz”
公式サイト:https://www.sunny-film.com/sergeiloznitsa
参考引用文献:
アレクサンドル・ソルジェニーツィン 『収容所群島』 木村浩 訳 新潮社
W・G・ゼーバルト 『アウステルリッツ』 鈴木仁子 訳 白水社
関連過去記事:
【映画評】 『ヒトラーを欺いた黄色い星』『ヒトラーと戦った22 日間』『ゲッベルスと私』 アウシュヴィッツの此岸 Ministry 2018年8月・第38号
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