【映画評】 『ヒトラーを欺いた黄色い星』『ヒトラーと戦った22 日間』『ゲッベルスと私』 アウシュヴィッツの此岸 Ministry 2018年8月・第38号

 〝さて私はこうして地獄の底にいる。もし必要なら人は、過去や未来をスポンジでぬぐい去る技術を、すぐにも学ぶものだ〟*1

 ナチスによるユダヤ人大虐殺は、この日本においても知らぬ者のいない、現代史上最悪の悲劇の一つとまずは言える。しかし人々は、本当は何を知っているのだろうか。こと地理的に遠いこのアジアに暮らす私たちは、この悲劇をめぐり知るべき何かを十分に知っていると言えるのか。あるいは何も知らずとも良いのだろうか。

 この2018年夏、ナチスの暴風吹き荒れた欧州でユダヤ人が味わった苦難を、これまでにない視点から描いた映画が続々と日本各地で劇場公開される。ここではうち3本を紹介したい。

ベルリン市中での生存を描く
『ヒトラーを欺いた黄色い星』

 ユダヤ人排斥の思想は、ヒトラーを総統とする国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチ党に初期から見られたが、具体的な施策が本格化するのはポーランド侵攻の1939年ごろからだ。以降ナチス・ドイツの戦線拡大に併せ、ユダヤ人のドイツ国外への追放とゲットーへの隔離、強制収容所への拘束から絶滅収容所の開設へと過激化する過程で、1943年2月には首都ベルリンからユダヤ人を完全排除することが政策決定され、同6月にはナチス・ドイツ宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスが「ベルリンからユダヤ人が一掃された」と正式に宣言する。

 ところが当時、実際には約7千人ものユダヤ人がベルリン各地に潜伏し、1千500人がヒトラー自決による戦争終結まで生き延びた。密告者の監視やゲシュタポの捜索をかいくぐるため彼らがとった手段は実にさまざまだが、『ヒトラーを欺いた黄色い星』は生還者のうち4人の隠遁生活に焦点を当て、市中における戦慄の日々を仔細に描写する。

 ナチス支配下のユダヤ人を扱う映画は数多い中、本作は衣装からセットまで作り込まれた再現ドラマの迫真性を、インタビューによる本人語りの生々しさが際立たせる構成の巧さが光る。

監督・脚本 クラウス・レーフレ
2017 年/ドイツ/カラー/ 111 分/配給 アルバトロス・フィルム
7月28 日より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか


絶滅収容所で最も成功した反乱

『ヒトラーと戦った22日間』

 「ユダヤ人問題の最終的解決」というフレーズが、複数のナチス幹部により強調され出したのは独ソ戦が泥沼化する1941年後半以降のことだ。その最悪の具現化態として、ドイツ占領下のポーランドではアウシュヴィッツ=ビルケナウに代表される6カ所の絶滅収容所が設置された。強制労働による総力戦支援を主目的とした多くの強制収容所と異なり、効率的な大量虐殺だけを目的としたこれら絶滅収容所の一つ、ポーランド東部に位置した《ソビボル収容所》において1943年10月14日、大規模な反乱が発生する。

 『ヒトラーと戦った22日間』は、この反乱の首謀者であるユダヤ人のソ連兵アレクサンドル・ペチェルスキーを主人公に据え、彼がソビボル収容所へ移送されてから一斉蜂起へと至る22日間を迫真的に描く。各地から集められ互いに異なる言語話者のユダヤ人収容者たちによりバベルの塔と化した収容区内の模様や、ナチス親衛隊将校に取り入るカポ(ナチスに協力的な監視役)とゾンダーコマンド(数カ月の延命と引き換えに虐殺の実務を担う)の人物造形、ガス室の阿鼻叫喚をかき消すため飼われた数百匹のガチョウの群れなど、細部のギミックに至るまで再現描写が生々しい。

監督 コンスタンチン・ハベンスキー
2018 年/ロシア、ドイツ、リトアニア、ポーランド/カラー/ 118 分/配給 ファインフィルムズ
9月8日より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほかにてロードショー


ゲッベルス元秘書による証言

『ゲッベルスと私』

 第二次世界大戦末期にナチス宣伝相ゲッベルスの秘書だった、ブルンヒルデ・ポムゼルによる独白。それは撮影時103歳の女性による類まれな内幕語りであり、かつ思想家ハンナ・アーレントがアウシュヴィッツ強制収容所の元所長アドルフ・アイヒマンの裁判傍聴を通して見出した〝凡庸な悪〟概念の一典型にも映る。

 『ゲッベルスと私』は、彼女の老化した皺の陰翳を執拗なまでに微細に捉えた映像が、その口元から「何も知らなかった」「私に罪はない」と言葉が放たれるとき、声帯と皮膚の深層にとどろく晦渋のうめきを鮮明に響かせる、稀有のドキュメンタリー作品だ。

 なお本作は、ナチスの中核を生き抜いた見聞の希少性という点を脇に置いても、日本で言えば明治生まれの生き証人による、首都ベルリンの戦前・戦中の暮らしにまつわる思い出語りが非常に興味深く、また戦争が深刻化し職場がナチス中枢へと移る以前まで大親友だったユダヤ人女性エヴァとの親交をめぐる挿話はあまりに物悲しい。

監督 クリスティアン・クレーネス、オーラフ・S・ミュラーほか
2016 年/オーストリア/モノクロ/113 分/配給 サニーフィルム
6月16 日より岩波ホールほかにて

 

 さて『ゲッベルスと私』で語られるナチス中枢部から観察されたベルリンと、『ヒトラーを欺いた黄色い星』における苛酷な生存の舞台としてのベルリンとの断絶はあまりにも深淵で、そこにアウシュヴィッツは横たわる。それは強制収容所を生き抜いたユダヤ人作家プリーモ・レーヴィが言い表したごとく、この世へと顕現した〝地獄の底〟である。

 イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは、アウシュヴィッツの今日性をめぐり以下のように述べている。

 〝わたしたちの政治は今日、生以外の価値を知らない。このことがはらんでいる諸矛盾が解決されないかぎり、剥き出しの生にかんする決定を最高の政治的基準にしていたナチズムとファシズムは、悲惨なことにも、いつまでも今日的なものでありつづけるであろう〟*2

 アウシュヴィッツが人類史上の特異点たらざるを得ないのは、その蛮行の規模や熾烈さゆえというよりも、現代文明を構成する諸システムが経路依存により生み出した、一つの補完装置として社会的に機能したからだ。そこではユダヤ人やロマ、身体障害者や同性愛者のみが一方的な深手を負った。一方、資本経済や民主選挙を大枠とする諸システムは今日も健在だ。フーコーの言う生政治の権力構造はむしろ、情報技術の革新によりさらに全面化し完成へと日々近づいている。ゆえに補完の要さえ生じたならば、あの装置はいつでも機能する準備がある。そこにアウシュヴィッツの現在性が息づいている。

 今日、世界全体が経済原理に屈服し、人々の卑近な欲得が倫理に優先される視野狭窄の時代へと入りつつある。マイノリティ圧殺への期待が社会的に一定値を越えると、その欲望の形がどれほど近視眼的であれ、そこに依拠する政治家は必ず現れ、その流れに見合う力を持つ。難民・移民問題、LGBT差別、止まらない格差拡大、ヘイトスピーチ……。

 今だからこそ日本人が多角的に見つめ直し、考えるべき点をアウシュヴィッツはなお無尽蔵に抱え持つ。なぜならそれは、現に私たち人間が成したことであり、確かに再び成し得ることなのだから。

*1 プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』竹山博英訳 朝日選書
*2 ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りもの ―アルシーヴと証人』上村忠男・廣石正和訳 月曜社

 

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【Ministry】 特集「改めて〝和解〟を問う」 38号(2018年8月)

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