【映画】 観察映画における瞑想性をめぐって 想田和弘監督インタビュー 2018年4月30日

 瀬戸内の穏やかな海辺の町を舞台とするドキュメンタリー映画『港町』が、この4月より全国順次公開されている。監督の想田和弘による新作としては、全米最大のアメリカンフットボール・スタジアムを舞台とする『ザ・ビッグハウス』公開も6月に控えている。いまや世界から注目を集める想田監督に、その宗教観や制作理念から経済・政治への関心まで、幅広く話を聞いた。

対照的な二つの新作、『港町』と『ザ・ビッグハウス』

 『港町』は、万葉からつづく古い漁師町である牛窓をモノクロームで映しとる、穏やかで美しい作品だ。その前半では、老いた漁師ワイちゃんが釣りあげる魚が地元の市場から魚屋へと卸され、各家庭の台所や野良猫の口元へ届くまでの流通過程を撮ることで、牛窓の人々が培ってきたつながりの豊かさを映し出す。ところが映画の後半では一転して、道端で出逢ったクミお婆さんに連れられ、撮影手である監督自身も想像さえしなかった異様な映像体験へと足を踏み入れていく。

【映画評】 「観察」の語りだすとき 『港町』 2018年4月8日

 一方、6月公開となる新作『ザ・ビッグハウス』では、アメフトのスタジアムでの祝祭的な一日を多視点から映し出すことにより、トランプ大統領下で揺れるアメリカ社会全体を逆照射する試みとなっている。全編カラー作品であることは元より、撮影手が17人に及ぶこと、一つの建物での一日に焦点を結ぶこと、数えきれないほどの人物が登場することなど、『港町』とはあらゆる面で対照的なのが『ザ・ビッグハウス』だ。今回のインタビューはこの表層における鮮やかな対照性が、人間に対する奥深い眼差しに貫かれたものであり、また想田監督の生い立ちにも由来する社会全体への問題意識がその基底に横たわることを聞き出すものとなった。

想田監督の宗教観をめぐって

 想田監督のドキュメンタリー映画8作目にあたる『港町』では、路地における獅子舞の神事や神棚、墓石の消失にまつわる挿話など、牛窓のコミュニティを支えてきた宗教ギミックの数々も映し出される。また9作目となる『ザ・ビッグハウス』では、キリスト信仰を母体とする巨大なボランティア組織や、スタジアム周辺で辻説法して徘徊する福音派系キリスト者たちなどが印象的な存在として幾度も登場する。そこで想田監督自身の、信仰上のバックグラウンドについてまず尋ねた。

 「大学では宗教学を専攻(東京大学・島薗進ゼミ)したくらいですから、宗教はとても大きな存在であり続けています。実は子どものころ、母親が日蓮宗系の佛所護念という新宗教に熱心でした。母は母子家庭育ちで貧困に苦しんだ経験から、結婚後もなにか縋るものが必要だったのでしょう。幼いころは彼女に連れられ白装束を着て参拝もしていましたが、次第に自分の考えとの違いを感じるようになった。そして長じるにしたがい、政治上の姿勢などに反発を覚えるようになりました。母の知人で新宗教に属するあるおばさんから〝この会にいると選挙のとき楽だよね〟と言われた時の強烈な違和感をよく覚えています。主体性をどこまで委ねどれほど帰属集団に頼るかというのは、永遠の課題ですね。

 ですから宗教というのはぼくにとってずっとやり過ごすことのできない存在で、その後東大に進んで島薗先生のもとで宗教学を学んだのもそのためです。

 宗教は科学的合理主義では割り切れないことを扱いながらも、目に見えるものだけを重視しがちなこの現代社会で、なお一定の位置を与えられ続けている。これは考えてみれば不思議なことであり、あらためて考えるべき点の多いことだと思います。アメリカに居を移してからもこうした関心は変わらず、機会があればいずれ宗教を主題化した作品を撮りたいとも考えています」

《観察映画》という手法の面白さ

  想田監督は、自身のドキュメンタリー映画撮影法を《観察映画》と名づけ、その初期から「観察映画の十戒」と題するルール詳細を公開して自身へ課してきた。概して言えばこの十戒とは、撮影者の意志に対象を従わせず、ナレーションや音響などの演出付加を極力排し、出来事の偶然性に身を委ねる手法を指している。『港町』は、2016年公開の前作『牡蠣工場』と同時期に撮った素材から全編が構成されている。同じ牛窓を舞台としつつも比較的テーマ性の強い『牡蠣工場』の、いわば余剰から本作は生起したとも言える。このことが、監督自身も想像していなかった領域へと『港町』を押し上げる効果をもったという。

 「『港町』は、編集作業に半年以上の時間をかけています。編集段階でも、ぼくは先にテーマを定めないでとりかかる。素材をシャッフルし入れ替えたりするうちに、〝あ、こういう映画を撮っていたんだ〟と気づくなど、発見の連続となる面白さが編集にはある。

 『港町』は、ぼくの映画のなかで一番肩の力が抜けてるんですよ。特に後半のクミお婆さんの場面は、撮ろうとしていない。クミさんに言われて仕方なく付いて行った感じで、そんなことは普通しない。撮らせて撮らせてとこちらからいつも頼み込んで撮るのが普通だけれど、そういう姿勢のまったくないところから『港町』の後半は出てきたんです。そもそも『港町』は、漁師のワイちゃんを撮りだしたその最初から『牡蠣工場』の余録的な性格があり、コントロールという雑念や欲が働かなかったという意味では、最も理想的な《観察映画》ができたという観もあります」

 方法論的探求の到達点としての『港町』、『ザ・ビッグハウス』で拓かれた新境地

 《観察映画》という語感からは、対象との距離を保ち相互影響を避ける、傍観者的な態度も想像されがちだ。しかし系譜的に想田作品を概観すれば、観察映画がそのような印象とは真逆の深化を遂げてきたことがわかる。自民党候補の選挙活動を追った観察映画初期作の『選挙』では、確かに想田のカメラは文字どおりに透明な存在となり、「忍者のような視点」といった映画評もしばしば散見された。しかし精神科の患者と医療スタッフを撮る観察映画第2弾『精神』では、登場人物のカメラへの直視やカメラの存在を前提とする発言の畳み掛けなどにより、「観察者」の対象への関与が映像のフレーム内へ貫入し始める。『精神』に続いて公開された観察映画・番外編と位置づけられる『PEACE』では、そもそも作品の主人公が想田の義父母と彼らの家に住み着いた猫であり、観察者である想田の声が全体の展開上も不可欠の要素として機能する。

 こうして自ら課した制約のなかで己の表現を研ぎ澄ませた尖端に最新作があるという見方を採るなら、『港町』におけるモノクロームの選択や『ザ・ビッグハウス』における同時多視点の採用なども、《観察映画》の追求という一編の長い道筋上に敷設されるさまざまなバリアントの一つなのだと把握される。そして実際こうした方法論的探求こそが、時代性を具えた一人の先進的な映画作家として想田和弘を屹立(きつりつ)させる核心なのだとも言える。その方法論的探求こそを駆動力の源泉とする表現者の佇まいは、想田作品の重要な共同制作者である妻・柏木規与子が師事した振付家マース・カニングハムや、観察映画第3・4弾である『演劇1』『演劇2』の主人公であり、日本の現代演劇そのものに革命をもたらして若手演劇人に強い影響を与えつづける演出家・平田オリザなど、時代をリードする芸術家たちが拠って立つ姿勢とも通底する。

 「ぼくのやっていることは、実際にはディティールを積み重ねていく作業なんです。見逃しがちな部分だからこそ見てほしい、と思えるものを大事にしています。例えば漁師ワイちゃんの、狭い船上での手さばきや目配りの凄さ。その逐一にワイちゃんの半世紀にわたる漁師人生が刻印されている。情報だけを伝えるなら30秒で済むものを、長い時間をかけて撮り、その一挙手一投足を映像として残しておくことがみんなにとって必要だという、それは使命感に近いものかもしれません。そして使命感というなら、牛窓で映画を撮るということの全体がいわばそうなんですね。この作品を観たことによって、どういう受け取りかたをするのかは人それぞれで良いのだけれど、ここを見てくれ、というときの〝ここ〟を提供するのが映画作家であるぼくの仕事だと捉えています」 

日本政治とSNS発信について

 想田監督はそのドキュメンタリー作品により世界的評価を得る一方、日本国内ではSNSでの政治的発言によっても広く知られる。ツイッターやフェイスブックを通じた旺盛な日々の発言と、映画制作へ向かう姿勢との距離についても話を聞いた。

 《観察映画》において、映像のフレーム外への〝開かれ〟は、実のところかなり決定的な要素を担っている。例えば『港町』においては、映し出される人物へと語りかけられる想田監督や想田の妻・柏木規与子の肉声や、路地をなす日本家屋の古い木造壁を透過する日常の生活音などが『港町』の映像体験を立体化させ、あたかも牛窓の町に自ら浸るかのような没入感を観客にもたらす。『ザ・ビッグハウス』の群衆の喚声やスタジアム周辺で奏でられる各種の拡声器による呼びかけも、その多くがフレーム外から到来することが、祝祭的熱狂の渦中に身を置く臨場感をいや増している。個々の作品でなく《観察映画》全体をひと連なりの長い想田監督作とみる視座からは、彼のSNSやマスメディアにおける身振りもまたその逐一が、いずれ《観察映画》自体へ陥入する表現行為の一部と化して映るだろう。この点で、素の言動と一見受け取れるものこそが演じられているという可能性をフレーム外の想田監督にみることは恐らく意義深い。その態度は『演劇1』『演劇2』において、想田監督が平田オリザに対して採った慎重さそのものでもある。

 「政治的な発言など続けても、映画作家としていいことはあまりないように思います。映画は政治的意見が合わない人にも観てほしいのに、どうしても色をつけて見られてしまうから。しかし今のようになったきっかけは、東日本大震災でした。それまでは、自分が参加しなくても政治も社会もちょっとずつよくなっていくという楽観主義が自分にはありました。ところが東日本大震災によって、日本の政治や社会の状況がひどいことになっていることを痛感した。それで発言を始めたら、とくに芸術系の人間が発言することが珍しいと受け取られたのか、いろいろなところから意見を求められるようになりました。

 (左翼文化人の代表のように扱われることも多いが、)ぼくは右なんですよ、ほんとは。本当は保守なんです。中島岳志さんが『「リベラル保守」宣言 』という本を出しましたけれど、あれなんです。だって革新的な人間は『港町』なんて撮らないでしょう。ぼくは進歩をあまり信じていません。ある程度の進歩は意味あるとしても、ゆっくりやらないといけない。今は早すぎる。高度経済成長時代からずっとそう。今の中国もそう。あらゆるものをブルドーザーのように破壊していく。それで壊れたもの、切り捨てられたもののなかにも、良い面と悪い面の両方があったはず。例えば時間をかけて積み重ねられた人と人とのつながりを担保するもの。自分がわからないもの、理解しきれず割り切れないものを、現代社会は無理やり割り切って、切り捨ててきた。その無理が結果的には過去との断絶として露わになる。その裂け目で原発事故が起きたりする。

 例えば『港町』前半で映した魚の流通サイクルは原初的な経済のありかたで、おそらく千年二千年単位で人類全体が成り立たせてきたありかただと思います。ところが漁師さんも魚屋さんもいなくなりつつある。これはものすごい変化ですよ。世界史的な大事件だとぼくは思うし、これは漁業だけに限らない話だと思うけれど、世間が着目することはない。そういう、断絶の時代に生きていることに想いを馳せてしまうんです。こんなことが続いていいのかなという。もう手遅れかもしれないし、解決策は思いつかないけれど、ただならぬことが起きていることは確かだと思う。だから『港町』のような作品によって過去とつながろうとするぼくの姿勢は、やはり保守だと思うんですけどね。世の中の風潮はすごい革新的ですよ。こんなに変わってばかりでいいはずがない」

《観察映画》の瞑想性とこれから

 想田和弘監督の現時点における最新著作は、スリランカ出身の仏教僧アルボムッレ・スマナサーラ長老との共著『観察 「生きる」という謎を解く鍵』(サンガ社)である。本著で主題となる「観察」とは、《観察映画》のそれであると同時に、仏陀がその瞑想修行において最重要視した営みでもある。想田監督はアメリカで暮らすなかヴェトナム系の仏教僧のもと参加した瞑想リトリートをきっかけとして、現在も毎日30分ほどの瞑想を欠かさないという。

 筆者はかつてタイで一時出家し瞑想生活をもった経験から、想田監督作における瞑想的要素が、近作になるほど増していることを強く感じた。この点を誤解を恐れず簡単に説明するなら、瞑想が進みある瞬間思考がとまると、感覚や感性の普段使わない部分が研ぎ澄まされ、それまでとまって感じられていたものたちが生命力を得て揺らめきだす。これは座禅でいうところの禅定にも近い状態だが、例えば『港町』におけるクミお婆さんの場面などからは、最も顕著にこの〝揺らめき〟が感得される。こうしたことはデヴィッド・リンチなど一部の劇映画から感じることはあっても、ドキュメンタリー映画では初めての体験だった。ストーリーラインとは別の軸を具えた映画とも言い換えられるこうした点をめぐって、想田監督へのインタビューの最後に聞いた。

 「作品が瞑想的という感想をいただけるのは、ぼくにとって非常に嬉しいことです。『港町』でぼく自身は、ひとつ自分の殻を破ったような感覚がある。今までやれると思っていなかったことを、この作品でできたという感覚。ただこれをもう一回やれといわれてもできない何か。そこは嬉しくもあり悔しくもあるところです。眠ろうとする時、眠ろうと意識してもなかなか眠れないけれど、それを忘れたときすでに眠っているというような。これをまた撮りたいと思っても無理。自分で撮ってはいない、もらったもの、というような感覚がありますね。それは瞑想の感覚に近いんです。ふだんは自己と密着しているその時々の嫌な気持ちとか欲望から、瞑想を通した自己観察によって距離をとることで別のものが見えてくる。反射的な反応ではない姿勢で世界と関われる。

 ただ瞑想によって気づけば気づくほど、〝世の中〟的な幸福や成功を求めることが苦しみの根源だということがハッキリしてくるんですね。そこから逃れようと思ったら、そうではない〝この世〟的でない価値観のもと生きていくことになる。究極的な平安がそこにしかないということはハッキリしているわけです。この点は自分にとって課題の一つですね。そちらのほうには踏み切れないでいるけれど、追求してみたい想いは自分のなかにもある。映画って本当に〝この世〟的な作業なので、ここはとても難しいところだと思いますね。彫刻家などのように、一人の作業の内にただ沈潜していくわけにいかない。その意味で『ザ・ビッグハウス』などは、まさに俗を極めたものですね。この限りでは『港町』とは対極を成す作品です。みなさんにはどちらもご覧のうえ、ぜひ比較なども含めいろいろと感じとっていただければ嬉しいです」

(ライター 藤本徹、撮影 鈴木ヨシアキ/2018年3月14日 新宿にて)

『港町』 4月7日よりシアター・イメージフォーラムほかにて全国順次公開中。
http://www.minatomachi-film.com/

『ザ・ビッグハウス』 6月9日より渋谷 シアター・イメージフォーラムほかにて全国順次公開中。
http://thebighouse-movie.com/

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