【映画評】 『港町』 「観察」の語りだすとき 2018年4月8日

 瀬戸内に面した牛窓の町を映す想田和弘の新作は、彫刻家にも似たこの監督の本質を露わにする。カメラは鑿であり、観る者は彫塑された時間の内に遊歩する。そこではモノクロームすらもが美学上の選択を超え、観客の主体的参与を誘う。終盤で老女が起こす転調は、精神を震撼させ普遍の底を突き破る。

 映画『港町』前半では、一人の老いた漁師が大きな役割を果たしている。万葉集にも詠まれる牛窓の町を舞台に、カメラは陸揚げされた魚介が市場でセリにかかり、魚屋の店頭に並び、トラックで町の隅々まで配送される過程を丹念に映し撮る。想田は86歳の漁師ワイちゃんが操る舟にも乗り込む。その熟練の仕草や工夫の痕跡が言葉による説明は一切なしに、しかし極めて説得的に示される。店先からでる余分な魚は、付近の野良猫へ供される。そしてこの一見のどかな光景において画面に映り込む、死んだ魚たちの眼やカメラを見据える猫たちの眼が実は、後半で老女がいざなう、一種異様な映像体験への入り口となる。

 本作『港町』は、2007年公開の『選挙』をデビュー作とする想田和弘の、ドキュメンタリー映画第8作目にあたる。想田は「観察映画」という手法を提唱し、一貫して研ぎ澄ませてきた。それは撮影者の意志に対象を従わせず、ナレーションや音響などの演出付加を極力排し、出来事の偶然性に身を委ねる手法を指す。事前に用意した筋書きに合う素材のみを欲望する近年のドキュメンタリー制作を巡る風潮への反発から「観察映画」は着想されたが、こと本作に至ってこの手法自体が新たな境地を切り拓いたかのようにも映る。

 この新境地を象徴するのが、終盤でのクミお婆さんの振る舞いだ。想田の手に抱えられたカメラは、この矍鑠(かくしゃく)とした老女からの再三の呼びかけに対する彼の躊躇や、彼女の突如の告白に対する想田の動揺を精確に記録する。彼女はここで、人と怪異との境目に立つシテ役として能狂言に頻出する老女そのものと化す。そしてこの異境の現出により、それまでの映像の逐一が脆くかけがえのない浮き世の影姿として観客の心へより鮮明に刻印される。ここにおいて路地裏での神事の光景や、墓石の消失を巡る逸話や、死んだ魚の眼の孕むしじまが初めて連なり、表層に流れる牛窓の物語とはまた別の、次元の異なる語りが結実される。

 この点に関して本紙の取材で想田監督は、本作が再現不能の奇跡的な均衡の上に成立したことを明かした。それは狙ってやろうとしてもできない、何かに撮らされているような感覚だったという。しかしまさにそれこそが、方法論的探求を続けてきた成果なのだろう。「観察映画」という一つの手法が、制作主体の意志を超える高みで異境を顕現させる。ミケランジェロと言わず世阿弥と言わず、過去の偉大な表現者たちが捉われてきた感覚にそれは等しい。

 では、この境地へと想田を駆り立てたものは何なのか。作品前半において魚の流通を軸に描かれる実体経済の全体が、今日では金融市場の数値に弄ばれ容易く危機に貶められる。老女の告白の後景には、社会的差別による積年の煩悶が仄めかされる。東大で宗教学を専攻した想田の作品は、年を追うごとその瞑想的性質を増しているようにも映る。しかしその基底において想田を突き動かしているのは明らかに、瞑想的境地とは真逆の燃え盛る瞋恚(しんい)である。実社会を大向こうに回したこの鋭い対極性こそ、想田作品の重層性を解く鍵なのだ。(ライター 藤本徹、撮影 鈴木ヨシアキ)

「瞋恚」:怒り憎しみ(仏教用語)。想田監督は日々の生活に仏教瞑想を取り入れており、新著は上座部仏教僧侶との共著であるなど仏教への関心が深い。

4月7日よりシアター・イメージフォーラムほかにて全国順次公開中。

公式サイト http://minatomachi-film.com/

【映画】 観察映画における瞑想性をめぐって 想田和弘監督インタビュー 2018年4月30日

©Laboratory X, Inc.

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