【映画評】 熱狂と静謐のあいだで 『バビ・ヤール』『オルガの翼』 2022年9月1日

1941年9月ナチスドイツ占領下キーウ(キエフ)郊外の窪地で、3万を超えるユダヤ人が2日の間に虐殺された事件の顛末を追うセルゲイ・ロズニツァ監督の新作ドキュメンタリー『バビ・ヤール』が日本公開となる。ロシア語話者でウクライナ国籍の同監督はこの春にも、ウクライナ東部で2014年から続く紛争をシニカルに描く劇作映画『ドンバス』公開で注目を集めたばかりだ。
『ドンバス』がフェイクニュースの製作から、裏で手を結ぶ政治家とロシア正教系の宗教団体まで現在進行形の戦争下で錯綜する関係性をオムニバス形式で描くのに対し、『バビ・ヤール』の映像は旧ソ連圏やドイツの映像アーカイヴで監督自身が発掘した記録フィルムのみにより構成される。膨大なアーカイヴを活用し現代史に新たな視点をもたらすロズニツァの手法は、1930年代の捏造裁判を扱う『粛清裁判』や1953年のスターリン国葬を多面的に捉える『国葬』などで度々世界を驚かせてきたが、本作は視覚的な稠密さや受ける衝撃の大きさでそれら傑作群の系譜をもはるかに更新する。
ナチス支配下ウクライナ西部の街リヴィウにおけるヒトラー歓迎ムードの描写に始まる本編は、激しく燃え盛る戦車や路上に埋もれる兵士の死体など独ソ戦の凄惨を映した後、本題の虐殺事件に関わるキーウ郊外へと至る。ナチス兵に監視され、徒歩で連行される大量の女性や老人などユダヤ市民たち。荒れ地に斃れた人々の群れをかき分けるように銃剣で点検して回る兵士たち。そしてソ連のキーウ奪還後に開かれた人民裁判。それら全ての映像が驚異的に鮮明であるうえ、圧巻なのはナチス士官12名の公開処刑に興奮するキーウ市民たちの光景のあと訪れる、窪地の大規模埋め立てを淡々と映しだす終盤の静けさだ。そこでは何もなかったかのように、排水管からこんこんと吐き出される泥水により全てが平準化され、その直上では巨大団地の建設が進む。こうしてウクライナ市民が進んでユダヤ人住民をナチスの毒牙へ差し出した事実はタブー化され、痕跡は新住民の家の下へと覆い隠された。
一方『オルガの翼』は、15歳の体操選手オルガが2013年、政情不安のウクライナからスイスへ移民し、言葉の通じない代表チームで欧州選手権に挑む姿を描く劇作映画だ。進行するキーウのユーロマイダン革命で傷を負う母、ロシアチームへ移ったかつてのコーチを貶す親友。大会当日、ウクライナ代表として舞台へ上がった親友は、政治的パフォーマンスを行い失格となる。そのあと異国スイスのユニフォームを着てスポットライトを一身に浴びた一瞬の静謐の中、世界の混沌とたった一人で対峙する少女の姿が胸に深く刻まれる。
実際にウクライナ代表チームの所属選手が演じるオルガはむろん、ソ連期を生きたことはない。革命の高揚をスマホで娘に伝えるオルガの母でさえ、1991年のウクライナ独立時にはまだ子供である。しかしこうして奇しくも公開期日を重ねた『バビ・ヤール』を対置すると、そこには多くの共通項がみてとれる。たとえばキーウの広場へ集う群衆の熱狂と暴力の執行。そしてこれらを踏まえ現行のウクライナ侵略戦争を想うとき、たとえばこれらを知悉した関係者・当事者の視界を想像したとき、見える風景はおのずと変わる。報道の伝える映像やメディアに踊る識者の言葉がより一面的に思えてくる。それは極めて有効な作業の一つとなる。身心の平衡をとり、混沌の世界と対峙するために。

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『バビ・ヤール』“Babi Yar. Context”
公式サイト:https://www.sunny-film.com/babiyar
2022年9月24日(土)よりシアター・イメージフォーラム公開(以降関西他公開予定)
『オルガの翼』 “Olga”
公式サイト:http://www.pan-dora.co.jp/olganotsubasa/
2022年9月3日(土)より、渋谷ユーロスペースほか全国順次公開
【関連過去記事】
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【本稿筆者による関連作品別ツイート】
『バビ・ヤール』“Babi Yar. Context”🇺🇦
ロズニツァ新作は、1941年9月ナチス占領下キーウ郊外の窪地で、ユダヤ人3万超が2日の間に虐殺された事件を追う。
ヒトラー歓迎ムードと独ソ戦の凄惨から、ソ連勝利後の人民裁判、公開処刑の熱狂と埋め立て後の静寂まで、全編アーカイヴ映像の衝撃は言絶の域。 pic.twitter.com/ly6lKqXipn
— pherim (@pherim) September 6, 2022
『国葬』でスターリンの最期を報じるラジオに耳を傾ける人々。彼を讃える放送の肩肘張った女性の声音は北朝鮮国営TVを想わせる。
都市部のみならずカフカスの峰やシベリア雪原、蒙古の草原を背景に黙す人々の佇まいは、その内に潜む不穏の気配を込みで1945年8月15日の玉音放送へと精確に重なり映る。 pic.twitter.com/FyOKsf9yEz
— pherim (@pherim) November 6, 2020
「独裁の時代、われわれは四方八方から敵に包囲されていたため、時として不必要な優しさ、不必要な慈悲心を見せたこともあった」
――《産業党》裁判でのクルイレンコ検事の演説(ソルジェニーツィン『収容所群島』より) pic.twitter.com/m0rikRYcoY
— pherim (@pherim) November 12, 2020
『ドンバス』“Донба́с”🇺🇦
ロシア側フェイクニュース撮影現場に始まる本作の、
紛争下ウクライナで製作された圧倒的解像度。捕虜への市民の私刑、地下シェルターの怨嗟、政治家と宗教団体の賄賂授受etc.
ハイブリッド戦争の諸相をクリミア以降の日常景として活写する、ロズニツァの胆力に震撼する。 pic.twitter.com/IrIGl7qBr2
— pherim (@pherim) May 14, 2022
『新生ロシア1991』🇷🇺
ソ連でクーデターが起きた’91年8月19日。レニングラード(サンクトペテルブルク)では、宮殿広場に集う群衆が時代を変えるうねりと化していた。
モスクワの公共放送が白鳥の湖を流し続ける前後不覚の下で人々がみせる当惑と興奮。報道が伝えなかった文化首都の熱気に圧倒される。 pic.twitter.com/MRFtM4c9mV
— pherim (@pherim) January 9, 2023
『破壊の自然史』🇩🇪🇱🇹
人類にとって空襲とは何か。
セルゲイ・ロズニツァ最新作が超弩級。爆撃機と演説、軍需工場で働く市民の日常と瓦礫の街。第2次大戦の連合/枢軸対立を換骨奪胎する目線の先へ、自ずとマリウポリ🇺🇦やアレッポ🇸🇾を想起させる編集の神業に戦慄する。音響ほか演出面も過去最高度。 pic.twitter.com/cRplYCstOT
— pherim (@pherim) August 13, 2023