【映画評】 ルーシの呼び声(3)『アトランティス』『リフレクション』『ナワリヌイ』《特集上映:ウクライナの大地から》 2022年7月6日

私は、私だけに見える世界を皆に見せるための機械だ。

(ジガ・ヴェルトフ、1896~1954年)

 ソ連映画の巨匠アンドレイ・タルコフスキーによる代表作『ストーカー』は、立入禁止区域「ゾーン」へ侵入する3人の男を描く。1979年公開の本作において、隕石が落ちたとも噂され謎の多い「ゾーン」へ送り込まれた軍隊は一人も生還せず、禁令を破って「ゾーン」へ立ち入る者は近隣住人から「ストーカー」と呼ばれている。1986年、チェルノブイリ原子力発電所でメルトダウン事故が発生する。これに伴い指定された現実の立入禁止区域で働く作業員たちは、自らを「ストーカー」と呼ぶようになる。

 複製技術の向上により表現物が環境と化した近現代においては、アリストテレスのテーゼ「芸術は自然を模倣する」を感性の水準から転倒させ、「自然は芸術を模倣する」とするオスカー・ワイルドの物言いが、しばしば本来の含意をこえてよくなじむ。芸術家は坑道のカナリアにもたとえられるが、ことに大量の人間が携わる産業構造物である映画において析出される未来像は、ときに一個人の想像力をこえたリアリティを帯び、未来の社会イメージそのものを輪郭づけてきた。1979年に、タルコフスキーが輪郭を描いた「ゾーン」の最深部へ立ち入る人間が次々と狂いだすイメージもまた、1986年の炉心溶融により肉付けられた(*1)。

 タルコフスキー当人が没したその1986年秋、『ストーカー』と同じストルガツキー原作による核戦争後の世界を描く『死者からの手紙』が公開される。監督はウクライナ生まれのコンスタンチン・ロプシャンスキー。今年2月以降、日本ではウクライナとロシアの映画公開が相次いでおり、『死者からの手紙』もまた東京・渋谷で数度にわたりフィルム上映された。本稿では以下、6月下旬公開のウクライナ・ロシア映画新作3本と、東京・シネマヴェーラ渋谷での特集企画《ウクライナの大地から》上映作群をとおし、現下の世界とその未来像を見渡したい。

 『アトランティス』は、戦争終結後2025年のウクライナ南東部ドンバス地方を舞台とする近未来映画だ。主人公である元兵士セルヒーは、2014年のクリミア危機を端緒として始まった同地での紛争で家族を亡くし、ともにPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ親友イワンを自死で失うなか、兵士の遺体回収を行うボランティアの女性カティアとの出逢いをきっかけに心を恢復させてゆく。

 カティアが属するNPO団体の行う遺体回収の場面では、戦地で身元が確認されることなく集団的に埋められた遺体が続々と掘り起こされ、医系スタッフによる遺体調査の手順が淡々と映される。見境なく場当たり的に埋められ、半ば白骨化ミイラ化した両陣営の兵士の遺体は多くの場合で体の一部が欠損し、一枚一枚ひきはがされる軍装や下着は血糊や焼灼、汚泥により元の色さえわからなくなっている。

 ウクライナ南東部、黒海へ連なるアゾフ海沿岸の都市マリウポリの激戦は2022年2月以降の直近数ヶ月報道の中軸を占め続け、巨大工業地帯の地下に避難する一般市民の映像はすでに見慣れたものとなっているが、本作序盤ではまさにこの製鉄所が舞台となる。

 主人公セルヒーとともに製鉄所で働く親友イワンは、トラウマによる鬱症状に襲われているさなか上司から叱責を受け、紅く発光する鉄溶鉱炉の渦中へ身を投じる。工員が集う場で外国人資本家により高らかに工場閉鎖が宣言される背後では、製鉄所の勇姿がソ連全体の希望の象徴とされた1930年代のロシア・アヴァンギャルド映画を代表するジガ・ヴェルトフ監督作『熱狂! ドンバス交響楽』が、暗い大工場の天井から吊るされたスクリーンに大きく映しだされている。

 製鉄所を去ったセルヒーは、戦争により水源が汚染された地域へ水を運ぶトラックの運転手として糊口をしのぐなか、事故で立ち往生している遺体回収NPOの車輌と遭遇する。偶然にもそのNPOでセルヒーは、かつて命を救ったひとりの女性スタッフと再会し、海外への移住を誘われる。彼女は言う。「私たちの仕事を必要とする土地はここだけではない」と。即答を避けるセルヒーは、その後カティアと知り合い、己の生きる場所を悟ることになる。

 2022年のロシア軍侵攻をめぐっては早くから、戦場都市の郊外地域に穿たれた“無数の穴”を映す衛星写真が報じられたことは記憶に新しい。本作が映すのはいわば、すでに2014年から同地で掘られ続けてきたそれら無数の穴の周囲で紡がれ得た人間ドラマのひとつである。葬送の機会を奪われたまま地中に眠る大量の戦死者たちの傍らで、行き場を見失ったまま汚染された地上を浮遊しつづける、大量の生残者たちの魂。

 映画史上の傑作を直に引用し2025年の荒廃を描くことで100年の時間軸を獲得しつつ、未来に対する絶望と希望とを鋭く対置する『アトランティス』の鮮やかな対照手法は、同じヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督2021年の最新作『リフレクション』でより深化する。本作では、日常と戦場とがすでに隣り合って久しいドンバス地方において、ロシア陣営に囚われたウクライナ人外科医セルヒーが主人公となる。治癒者をイメージさせるその名は、前作『アトランティス』の主人公名から引き継がれている。

 捕虜の拷問死を看取らされる地獄の底で、セルヒーは元妻の再婚相手と再会する。拷問で致命傷を受け苦しむ男を楽にするため殺めるセルヒーの手つきが、趣味で古レコードを扱う日常のそれに重なる。冒頭でセルヒーの幼い娘が放つペイント銃のカラフルな弾痕と、中盤でガラス窓に衝突した鳩が残す天使の聖痕。変わり果てた姿で横たわる旧知の人間を殺める外科医の音なき仕草が、序盤で手術台の患者を救おうと尽力するセルヒーの姿に重なる。

 reflection=鏡像が映しだす世界のリアル。成人男性の出国が禁じられた2022年現在の混迷極まるウクライナでヴァシャノヴィチ監督は、今日もカメラを携え戦争を撮り続けているという。

 コモンは誰でもないものに属する。全面的に世俗化された世界の中で、放ったらかしの空地は、聖なる空間、隔離された「ゾーン」の役割を担う。俗的なもののもつ聖性は、おそらく民主主義、より正確にいえば、その明かされていない真の意味でのコミュニズムを処方するオルタナティブのひとつなのである。

(アルテミー・マグーン、1974年~)

 元来ウクライナ映画は、あまり注目される領域とは言い難かった。1991年の独立までに同地で撮られた映画はもっぱら「西側資本主義(自由主義的民主主義)世界とは文脈の異なるソ連映画」としてロシア他の作品群とひとくくりに扱われ独自のイメージが醸成されなかったからだが、そうしたなか現代ウクライナの異色映画として日本でも話題になったものに、聾学校の内幕を赤裸々に撮る2014年のミロスラヴ・スラボシュピツキー監督作『ザ・トライブ』がある。

 実はヴァシャノヴィチ監督は、この『ザ・トライブ』において製作・撮影・編集を一手に担っていた。台詞やBGMなしに生徒らの息遣いと身体がぶつかり合う衝撃音だけを伴い、聾学校で横行する窃盗や売春、暴力の光景を撮る『ザ・トライブ』の物質的な映像音響感覚は、ほぼそのまま『アトランティス』『リフレクション』に受け継がれる。『ザ・トライブ』と同じ構図のショットさえ散見される。

 この映像音響や演出の質的な継承という観点をさらに広げると、たとえばヴァシャノヴィチ作品に際立つ正面性やシンメトリー構図は、ジガ・ヴェルトフと同時期にオデッサやキーウで活動した世界的巨匠ドヴジェンコ不朽の名作『大地』『武器庫』を含む《ウクライナ三部作》や、その弟子筋にあたるウクライナ人女性監督ラリーサ・シェピチコによる傑作『処刑の丘』(直上動画↑)の研ぎ澄まされた戦場描写を想起させる。

 また汚染されきった近未来の土地を舞台に紫外線映像などを持ち込む『アトランティス』の世界観は、核戦争後を描くウクライナ生まれのロプシャンスキー監督1986年作『死者からの手紙』(直下動画↓)を、『リフレクション』の極限状態で生き抜くことを強いられる父娘を象徴的に描く点は、アゼルバイジャン生まれのウクライナ=アルメニア人監督ロマン・バラヤンの1977年作『猟人日記“狼”』を各々連想させる。ここに挙げたヴァシャノヴィチ以外の人々はいずれも、これまで「ソ連映画」の監督として認識され語られてきた人々だ。

 たとえば日本語報道においてもキエフがキーウと表記を改められ、いずれチョルノービリという表記も人口に膾炙されゆくだろう時流のなかでは、こうして過去単発で公開され注目を浴びるに過ぎなかった21世紀ウクライナの作品群もまた、「ソ連映画」の系譜から細分化された「ウクライナ映画」の延長線上へと再編され、時間をかけ語られ直されていくのだろう。直近のウクライナ報道では、同国出身でウクライナ語文学に批判的であったロシア語文学の大家ゴーゴリの教科書からの排除といった偏狭な動向も伝えられるが、加えて前回冒頭に述べたロシア語話者ウクライナ人監督ロズニツァのウクライナ映画アカデミーからの除名などもまた、こうした語り直しがもたらす揺れの波形といえよう。

 この6月には早くも渋谷において、ソ連期の映画群からウクライナ関連の作品10本を選出した《特集上映:ウクライナの大地から》が開催された。社会的構成物としての映画はそのようにして語られかた在りかたを変えることにより、時代と場所の制約のもと表現主がどうにか作品の内へ宿した命を不変に生き永らえさせ、後代の世界へ受け継がれゆく。この意味では世間的にあまり注目されることはないとしても、すでにデジタル方式のDCP上映が全国的に一般化したこのタイミングで、同特集上映が10本すべての35mm上映を実現したことの意義は小さくない(*2)。

 これは企画主体のシネマヴェーラ渋谷にまったく限らない話として、インターネットで送受信も可能なデジタル映像音声データとは異なり、現物の持ち込みが必要な35mmフィルムをコロナ禍下においてもこの水準で揃えることが可能な国は実のところ、アジア圏全体をみても稀である(*3)。関連省庁の権益確保と広告代理店による草刈りの場でしかない「クールジャパン戦略」の貧しさや、総花的な芯のなさで近隣国の後発映画祭に置き去られる国際映画祭群(美術音楽など他分野でも同様に)とは別次元の、実を具えた日本の文化力はこうしたあたりに人知れず息づいている。

塔に住まうは不遜な輩 面皮の厚い恥ずべき輩 まるで神を畏れぬ輩
そして神を信じぬ輩は 己が穢れた罪にどっぷり浸かり
いつまでも現を抜かしては よろず聖なるものを愚弄する
愚弄しては嘲笑し 悪魔の所業で己を覆う
皆が聖なるルーシを蔑む 正しき教えを守る聖なるルーシを
皆が真理を笑い物にする 皆が神の名を辱める

(ウラジーミル・ソローキン、1955年~)

 2028年の帝政ロシア。ソローキン2006年の小説『親衛隊士の日』では、帝政が復活したクレムリンの壁や赤の広場は白く塗り替えられ、生まれ変わった《白の広場》を、親衛隊士=オプリーチニクたちが闊歩する。彼らは赤いメルセデスを駆って帝国版図を行き交い、叛逆者たちを殺戮する。その様はイヴァン雷帝(在位1533~86年)の治世下ツァーリだけに忠誠を誓った親衛隊による虐殺行為そのものの再現であると同時に、2006年の本書刊行時2期目へ入り統制強化に乗り出たプーチン体制から窺えるロシアの未来像を鋭く諷刺した。ロシア語に大量の中国語が混ざり込む描写のリアリティたるや、ウクライナ侵攻後のロシアがすでに宿命づけられた今後の中国依存をまさに預言しきっている。

 「21世紀初頭にいるわれわれは、コミュニズムの運動とその構想の核心にある曖昧さへと戻っている。コミュニズムとは、人間があらゆるものを集団で大規模に横領するひとつの体制のことなのだろうか? あるいは反対に、所有を否定する聖なるプロジェクトなのであろうか?」 サンクトペテルブルグを拠点とする左派系論客アルテミー・マグーンはそう問いかける。その論考「コミュニズムにおける否定性――疎外のパラドクス」(*4)において、ソヴィエトの実験を「失敗したコミュニズム」として単に退ける凡百の思潮を脇目に、ソヴィエト体制が無自覚なまま実現していた自由なコモン(共同性)の様態を内から炙りだす手際は鮮やかだ。

 マグーンの語り口に従うと、私的所有の欲望と拝金主義とに覆われた人々がアトム化し、公共空間が荒廃したこの四半世紀のロシア映画にみる都市描写のうちにも、たしかにコムナル(共同的)なものは感覚される。それはたとえばセレブレンニコフ監督作『インフル病みのペトロフ家』『LETO -レト』(ともに前稿「ルーシの呼び声(2)」で詳述)に登場するソ連期団地建築や共同住宅コムナルカにおける公共部の放置された無秩序によく反映されている。マグーンが言うように「旧ソ連地域においてコミュニズムとは、当初は〔社会主義時代には〕未来にあるものとされ、そののち〔ソ連崩壊後には〕過去にあったものとされた」。つまり、現在を捉えることがないコミュニズムは、そのはじめから多元的な性質を有するコミュニティの存在自体を超越的に規定し得ない。

 この間隙に、ソローキンはキエフ・ルーシの中世へ連なる帝政復活への潜勢力をよみとるが、辺境の洞窟修道院への参拝を重ね皇帝のカリスマ的聖性を装いつつ国家の暴力装置性に操られるウラジーミル・プーチンは目下、ソローキンの描く新皇帝の頽落した戯画にも思える。こうした事情はプーチン失脚後も構造的に、容易には変わり得ない。

 たとえばプーチンの対抗馬として2000年代後半に頭角を現したアレクセイ・ナワリヌイ(ナヴァリヌイとも表記)は、元はリベラル系のロシア統一民主党ヤブロコ出身ながら、急速に支持層を広げる過程でナショナリズムへの接近を見せる。ドストエフスキーしかりドヴジェンコ(直上動画『大地』↑)しかり、ロシアの場合ナショナルとはしばしば大地に象徴される。都市化された市民社会においても、この大地性はなお市場の合理や個人化された論理を統べる超越性の担い手を待ち望み、公共空間へ放擲された無秩序の闇に息を殺して潜んでいる。

 ドキュメンタリー映画『ナワリヌイ』は、ロシア国内における反プーチン勢力の急先鋒に立ったその男アレクセイ・ナワリヌイを描く。本作では、急速に支持を集めるさなか毒殺されかかった当人が、英国の調査報道機関べリングキャットとの協力を通じた奇想天外なハイテク計略により、犯人集団の背後にプーチン政権が潜む事実を暴きだす。

 その前半部には、仕掛けられた毒物由来とのちに判明する原因不明の苦痛に襲われたナワリヌイ本人が、旅客機内でうめきだす動画も含まれる。一方後半部では、ソ連期以来その精悍さで恐れられたロシア特殊精鋭部隊スペツナズの面々が、あまりにも間抜けな実態を晒し、オウム真理教事件時の上九一色村を想起させる秘密化学工場の実在を所属の科学者が簡単に洩らしてしまう様が描かれる。今日のウクライナ侵攻をめぐっても統制の不在が指摘されがちなロシア政府諸機関の、凄まじい劣化ぶりに震撼する。

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 ナワリヌイは2022年現在、特別な監視態勢を有する地方の刑務所に収監中である。逮捕を覚悟のうえ帰国便へ乗り、空港のゲート内で家族と別れ拘束されるナワリヌイの姿を映して本作は幕を閉じる。地方の老若男女からも幅広く熱烈な支持を受ける様子を本作は伝えており、解放の暁にはなお反プーチン層の受け皿として主要勢力の一角をなし得ることは想像に難くない。

 しかしここで危ぶまれるのは、仮にプーチン政権崩壊後ナワリヌイあるいはナワリヌイに類する人物が主導権を握ったとして、エリツィン政権時のチェチェン侵攻以来南オセチア、シリア等へ続く「リスクをとっても軍事作戦が最善手にみえる状況」を、その後のロシア国家が免れ得るかという点だ。それはかつて大日本帝国が嵌まり込んだ構造にも似て、仮にロシアが単独で免れたとしても、大戦後のインドシナや朝鮮半島が現にたどったように周辺地域へ火種を移す懸念は色濃い。

 ゾーンは私の映画のあらゆるものと同じように、なにも象徴していない。ゾーンはゾーンだ。ゾーンは人生だ。そこを通る途中で、挫折する者もいれば、なんとか持ちこたえる者もいる。人間が持ちこたえられるかどうかは、重要なものと過渡的なものを区別する能力と人間としての尊厳に依存している。

 私の義務は、ひとりひとりの人間の魂のなかに生きている独得の人間的で永遠なるものについて考えさせること(…)、映画を見るものに、自分のなかにある、愛する欲求、愛をささげる欲求を感じさせ、美の呼び声を感じさせることだと考えている。

(アンドレイ・タルコフスキー、1932~86年)

 映画『ナワリヌイ』において主人公ナワリヌイはまた、家庭を大事にする理想の父として描かれる。しかし幼いわが子とあえて英語で会話するようなそのコスモポリタン的“理想の家族”像が映えるのは、対極にプーチンという権威主義的保守の権化が屹立してこそである。この意味でも、つかのま訪れる革新の季節のあと必ず到来するだろう揺り戻しの狂躁をも予感させる『ナワリヌイ』の終盤には考えさせられる。

 まず社会があり個人が析出されるのであって、その逆ではあり得ない。あらかじめ強靭な個を前提に権利や義務を主体へ纏わせる発想の無理は、けっきょくのところ素知らぬ顔で振り撒かれる二重規範や無自覚の権威主義志向を量産し、そのひずみは一方的な抑圧と化し社会的少数者へのしかかる。もはや現代文明の宿痾といえるこうした構造は、人類学者グレゴリー・ベイトソンがダブルバインドの語を生んだ1950年代からすこしも変わらない。戦争は悪である。言うまでもない。しかし浅薄な集団主義や狭隘な排斥志向が孕む攻撃性よりも、水面下で個別の内面を責め立てる陰湿さを伴うこの宿痾は一層邪悪に映る。

 ロシア正教の指導者モスクワ総主教キリル1世は、ウクライナで続く戦争について、正義と悪の黙示録的戦いに他ならないと語る。この戦争の結末は「神の加護を受けられるか否かという人類の行方」を決めるという(*5)。プーチンの現状については口さがなく重病説なども囁かれるが、筆者が気になるのはむしろ囁く当人たちをも相互依存的に巻き込む風潮から醸される、ある種の社会病理的ムードのほうである。

 コロナ禍以降あきらかに加速するこの神経症的傾斜の奥向こうからは、植民地政策由来の香港雨傘運動に共鳴し、奴隷制に遠因する米国BLM(ブラック・ライブズ・マター)運動で倍音化された、過去に根深く端源をもつ重い通奏低音が聴きとれる。ホロコーストとナチスにまつわる首脳同士の応酬を遥かに突き抜け、ロシアのウクライナ侵略をめぐってはそこに、古代ルーシからの呼び声が幽かに響く。映画の紹介を主眼とする本稿では、その下部構造へ降りて言及するには一定の字幅ないし更新回数が前提とならざるを得なかった。次稿以降では《ルーシの呼び声》を、より直截に聴きとりたい。

ロシアよ! アジアの強盗の情熱はもう冷えたか?
血の中で欲望がどっさり沸いている。
福音書の蔭に隠れたトルストイの輩を引きずり出せ!
見ろ、その髪の生え際、どうしたんだ? 塹壕の皺がおでこに刻まれてる!

シーッ……すげえ音だ。 太鼓か、音楽か? ほんとか?
あれがそれなのか、まちがいなく?
そうだ!
始 ま っ た。

(ウラジーミル・マヤコフスキー、1893~1930年)

(ライター 藤本徹)

『アトランティス』 “Атлантида” “Atlantis”
公式サイト:https://atlantis-reflection.com/

『リフレクション』 “Відблиск” “Reflection”
公式サイト:https://atlantis-reflection.com/

『ナワリヌイ』 “Navalny” “Навальный”
公式サイト:https://transformer.co.jp/m/Navalny/

いずれも全国順次公開中。

《特集上映: ウクライナの大地から》
http://www.cinemavera.com/preview.php?no=277
2022年6月4日~6月17日 シネマヴェーラ渋谷開催

予告:次稿では、7月15日公開のロシア映画『戦争と女の顔』とフィンランド映画『魂のまなざし』、9月上旬公開予定のウクライナ映画『オルガの翼』ほかを扱う予定です。

*1 より直截的なチョルノービリ事故現場で作業員が狂いだす描写は2019年米国作品『チェルノブイリ』、2020年ロシア作品『チェルノブイリ1986』で具現化される。前回記事「ルーシの呼び声(2)」にて詳述した。

*2 言うまでもなく、残された35mmフィルム名作群の4Kデジタルへのリマスター事業は重要かつ喫緊の課題であり、修復され変換された高精細デジタル上映の鮮明度から受ける感動にはひとしおのものがある。これに比べ物理的劣化を避けられない35mmフィルムそのものの上映機会は総体として、一方的に減りゆく宿命にある。

*3 たとえば福岡市総合図書館は、長年にわたり継続開催されたアジアフォーカス・福岡国際映画祭(1991~2020年)との連携により、アジア各国の計900本をこえる映画を、英日字幕付きフィルムの状態で有しているという。今日では年々予算縮小の一途にあるというがこの規模は世界にも例がなく、その資産がもつ潜在力は底知れない。この6月にも東京・御茶ノ水のアテネ・フランセ文化センターと日本映像学会アジア映画研究会の共催でセレクション上映企画が催されたが、今後もより幅広い活用が期待される。

福岡市総合図書館所蔵作品アジア映画セレクション: http://www.athenee.net/culturalcenter/program/as/asiancinema.html

 ハリウッドの映画文法から距離をとる世界各国の多様な映画を長年幅広く上映してきた岩波ホールの閉館や、制作現場から劇場まで多発するハラスメント騒動など逼塞ムードが占める昨今の映画業界ではあるが、ヴァシャノヴィチ監督新作公開の地盤にもこうした地力が依然働くことは明記しておきたい。

*4 「 」内引用部出典は、アルテミー・マグーン論考「コミュニズムにおける否定性――疎外のパラドクス」(詳細下記)

*5 ウォール・ストリート・ジャーナル2022年3月17日記事(詳細下記)

補遺1:ジガ・ヴェルトフによる冒頭辞は、士郎正宗原作・神山健治監督作『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』第26話からの2次引用。1次出典元は下記ヴィリリオ著『情報エネルギー化社会』

補遺2:なお『アトランティス』『リフレクション』の両作は今年、この3月末に東京で有志により催されたウクライナの映画人を支援するための緊急企画でまず上映された。これはウクライナ気鋭のヴァシャノヴィチ監督による両作の上映資金をクラウドファンディングで募り、経費を上回った募金については映画人支援の国際組織へ寄付するというもので、結果的には短い告知期間にも関わらず、目標額の3倍を集めるに至っている。今回の全国ロードショーはこの反響を受けたもので、引き続き上映売り上げの一部は支援機関「International Coalition for Filmmakers at Risk(リスク下にある映画人との国際連帯)」へ寄付される。

 報道では「ウクライナ疲れ」「ゼレンスキー疲れ」などの文字が踊る昨今ではあるが、こうしていざ蓋を開けてみれば同地で今この瞬間にも進行中の戦争に対し、報道やSNS以外の手段を通じアクセスしようと望む人々が膨大にいることも明らかとなった事実は、逼塞しがちな今般の社会状況を踏まえるにとても心強い。遠くの地で作品を実際に観る人間のいることが、彼ら作り手たちにどれだけの力を与え得るかについては、当人の声明を含め前稿末尾に述べた通りである。

ウクライナ映画人支援緊急企画 ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ監督作品上映会:https://motion-gallery.net/projects/standwithukraine/
発起人は前東京国際映画祭プログラミング・ディレクター・矢田部吉彦

【主要参考引用文献】

ポール・ヴィリリオ 『情報エネルギー化社会―現実空間の解体と速度が作り出す空間』 土屋進訳 新評論
ウラジーミル・ソローキン 『親衛隊士の日』 松下隆志訳 河出書房新社
アルテミー・マグーン 「コミュニズムにおける否定性――疎外のパラドクス」『ゲンロン6』所収 八木君人 訳 ゲンロン
アンドレイ・タルコフスキー 『映像のポイジア―刻印された時間』 鴻英良 訳 キネマ旬報社(2022.7.11 ちくま学芸文庫より文庫化予定)
Francis X. Rocca, ‘Russian World’ Is the Civil Religion Behind Putin’s War, The Wall Street Journal, March 17, 2022
https://www.wsj.com/articles/russian-world-is-the-civil-religion-behind-putins-war-11647539958
ウラジーミル・マヤコフスキー 『戦争と世界』 小笠原豊樹 訳 土曜社

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【本稿筆者による言及作品別ツイート】

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