【映画評】 ザンドラ・ヒュラー、その質実なる目線。 「特集・ザンドラ・ヒュラー ——変幻する〈わたし〉のかたち」 2025年10月3日

東ドイツ生まれの現役俳優ザンドラ・ヒュラーが見せる、アウシュヴィッツ絶滅収容所所長ルドルフ・ヘスの妻ヘートヴィヒを演じる姿は人々を震撼させた。映画『関心領域』における、ヘス所長宅と収容所とを隔てる壁の向こうで為されている惨劇を知らないのでなく、見ないフリを完璧に貫くことで「ありふれた家庭の幸福」という理想へ邁進するその姿が孕む狂気は、夫ルドルフのそれを遥かに凌いでいた。
いまや当代ドイツを代表する名優となったザンドラ・ヒュラーを特集する上映企画が開催される。コロナ禍までドイツ語圏での出演履歴が長かった彼女だが、主要国際映画祭で注目を浴びつづけた近年は、世界の有力監督から出演を熱望されるようになって久しい。本企画では、日本でも話題となった直近の出演作群のほか、初期出演作など日本初公開作3本を含む全7本が上映される。
ホロコーストを描いた2024年作『関心領域』で彼女の世界的名声は最終的に確立したといえるが、その半年前に主演するフランス映画『落下の解剖学』がカンヌ国際映画祭において最高賞を獲得しており、とりわけ日本でザンドラ・ヒュラーの名を知らしめる鏑矢となった2017年公開の『ありがとう、トニ・エルドマン』以降は、2018年の傑作『希望の灯り』や、ナチス台頭に抗う人々を描く2022年『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』を含む作品群への出演履歴を選択的に、質実に重ねてきた。
たとえば、本企画において日本初上映となる『二対一 東ドイツ通貨統一の夏に発見した大切なこと』は、ベルリンの壁崩壊から一気に進行した東西ドイツ統一の渦中で、東独側のある団地住民が一致団結し、西側のビジネスマン達を手玉にとる仕方で死蔵された東ドイツマルク紙幣の換金を目論む快作だ。資本主義世界の拝金主義を大いに皮肉る描写の中核にありながら、置かれた状況のなかで淡々と自らの最適解を選び取ろうとする彼女の役柄は、外交の現場においてナチスの暴走をどうにか防ごうとする『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』や、特異すぎる状況下でもおのが日常を貫こうとする『関心領域』のヘートヴィヒ役を想起させる。
「ナチス」や「ヒトラー」の語は、ポリティカル・コレクトネスの意識過剰ゆえに働きがちな抑圧/配慮や忖度下でも安心して《悪》と名指せる便利な用語として、映画主題のみならず各国首脳の口端にもしばしば上る単語だが、いざその役柄を生身の役者が演じるとき一面的に悪ぶるだけでは表現が単に浅くなる。『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』でザンドラ・ヒュラーと共演するアウグスト・ディールはこの意味でドイツ映画史上最も注目すべき作品履歴を誇り、信仰を守ることで処刑された農夫を演じた『名もなき生涯』はその代表作の一つだが、『関心領域』へ至る軌跡によりザンドラ・ヒュラーもまたアウグスト・ディールと肩を並べる存在となったことは疑い得ない。
1970年代西ドイツの田舎町で、てんかんを抱える少女が自らを悪魔憑きと信じるに至るザンドラ・ヒュラー20代の初期作『レクイエム』にも、この流れは通底する。本作同様に、教会神父二名による過失致死へと至った史実事件を元に制作された米ホラー映画『エミリー・ローズ』がエクソシズム描写を軸とするのに比べ、『レクイエム』は主人公が過ごす日常の細部描写が極めて密なものとなっている。こうした志向は、オーストリア皇后の侍女となるハンガリーの伯爵令嬢を演じる『エリザベートと私』や、ブカレストで働く娘と実父との風変わりな関係性の転変を描く『ありがとう、トニ・エルドマン』にも一貫する。
統一後の旧東ドイツに位置するスーパーマーケットを舞台とする『希望の灯り』は、東ドイツのありふれたスーパーで働く人々を質実に描き、ありふれているがゆえに資本主義潮流の権化たるスーパーという舞台が、政治体制が変われど変化しようのない人間のリアルを浮かび上がらせる傑作だ。
こうして観る者はザンドラ・ヒュラーの役柄を通し、各時代の独語圏を生きる人間に固有の世界感覚に対する解像度を、一作ごと鮮やかなものとする。ハリウッドのスター俳優のようにおのが個性を煌めかせて「売る」という仕方に依らないこの点こそが、いまや当代ドイツを代表する名優と見做される所以である。
(ライター 藤本徹)
特集上映「特集・ザンドラ・ヒュラー ——変幻する〈わたし〉のかたち」
公式サイト:https://www.goethe.de/ins/jp/ja/kul/nlk/san.html
2025.10.3-16 YEBISU GARDEN CINEMA
【関連過去記事】
【映画評】 『ヒトラーを欺いた黄色い星』『ヒトラーと戦った22 日間』『ゲッベルスと私』 アウシュヴィッツの此岸 Ministry 2018年8月・第38号
【本稿筆者による言及作品別ツイート】
『レクイエム』Requiem⛪️2006
1970年代、西ドイツの田舎町で、てんかんを抱える少女が自らを悪魔憑きと信じ込む。
名優ザンドラ・ヒュラー20代の初期作で、狂気の淵に立つ魂の瑞々しさを体現する。同じ史実を元にエクソシズムを描く“エミリー・ローズ”に比べ、生活&内面描写のリアリティが半端ない。 https://t.co/84zrNh38zC pic.twitter.com/EcOTlfXHDU
— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) September 20, 2025
『エリザベートと私』Sisi & Ich🇩🇪🇦🇹🇨🇭2023
独身で中年を迎えた伯爵令嬢イルマが、オーストリア皇后エリザベートの侍女となる。孤独な二人が逼塞しゆく共依存の沼底に煌めく熾火。
歴史物ゆえの単調さを予感するも、二人で崖から海へ飛び込み駆け馬へ転調したりとよく動く。https://t.co/yP5X9Z4MRy pic.twitter.com/2Nk0j8V9cA
— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) September 23, 2025
『二対一 東ドイツ通貨統一の夏に発見した大切なこと』Zwei zu Eins🇩🇪2024
楽しい団地史劇。
統一の渦中に東独の団地住民が団結、死蔵された東ドイツマルク紙幣の換金を目論む。
主演ザンドラ・ヒュラー同様に東独出身で、🇯🇵では観る機会僅少な名優Peter Kurth↘も快演。 https://t.co/ewWrttVM7C pic.twitter.com/esdFdSQUX7
— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) September 29, 2025
『関心領域』🇵🇱🇬🇧“The Zone of Interest”
幸福な家族景、の壁向こうから響く不穏。
アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスの邸宅が象徴する他者犠牲への無関心ぶり、その今日性に震撼する。
ただ理想の家庭イメージを追い求める姿が狂気そのものと化す、主婦役ザンドラ・ヒュラーの凄演に息を呑む。 https://t.co/EDB4Px0dBo pic.twitter.com/QTeV60QGO6
— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) May 16, 2024
『落下の解剖学』🐕
山荘で男が転落死する。
殺人容疑者となった妻と、父の死を目撃した息子と犬を軸に回る法廷劇は後半、異様な展開を見せ始める。
寡黙なドイツ語名優の印象が濃いザンドラ・ヒュラーの、英仏語で切る啖呵は新鮮。カンヌ最高賞も納得の質実サスペンスに見入る。あとワンコ最高賞。 https://t.co/bEBVbkd7zg pic.twitter.com/9D3ZIc94e0
— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) February 20, 2024
『希望の灯り』
旧東ドイツの巨大スーパーで働く、わけあり青年の寡黙な慕情。そこは荒涼とした夜空に浮かぶ輝点のように、東西統一後の変化から置き去りにされた郊外の心優しき人々を包み込む。フォークリフトの軌跡とバッハの音色が深く静かに流れゆく物語へ随伴する、映画という幸福にみちた2時間。 pic.twitter.com/knI5oEqGk1— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) March 31, 2019
『ありがとう、トニ・エルドマン』
お騒がせな父親に翻弄されるキャリアウーマンの娘、という構図がだらだら続くのを眺めるうちに、お?、おおお、お~、となって着地する素敵コメディ。《だらだら》が意図された抑制だと気づく時、現代人の日常への諷刺の鋭さに震撼する。本物の心優しさと不器用さ。 pic.twitter.com/VAuBT8N0Ub— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) May 25, 2017
『ミュンヘン: 戦火燃ゆる前に』
ヒトラーとチェンバレン🇬🇧首相の秘書官になった親友同士が、ミュンヘン会談下に再会し各々第二次大戦の勃発回避へ挑む。
“俺たちは生きる時代を選べないが、どう生きるかは選べる”🔥
ジョージ・マッケイ他、とりわけナチス側演じる🇩🇪名優陣の魂籠る競演に痺れ通し。 pic.twitter.com/VVlYVGOcts
— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) August 3, 2022
『名もなき生涯』
オーストリア山村に暮らす農夫が、ヒトラーへの忠誠を拒んで処刑されるまでの日々。無名の男が貫く魂の誠実を圧倒的な風景描写により語らせる、テレンス・マリック孤高の達成。夫婦の覚悟を畏れつつ見捨てる司祭や判事(ブルーノ・ガンツ)の苦悶と、排斥する村人らの相貌に戦慄する。 pic.twitter.com/ESCsoLQk4a— pherim|土岐小映⚓️ (@pherim) February 20, 2020