【映画評】 抵抗と信従 『名もなき生涯』 2020年4月1日

 オーストリアの山村に生きる一人の農夫が、ヒトラーへの忠誠を拒んで処刑されるまでの日々。無名の男が貫く魂の誠実を、独自の撮影手法に基づく圧倒的な自然描写によって語らせる、伝説的映像作家テレンス・マリック孤高の達成。おのが信仰を堅持する農夫とその妻の覚悟を畏れつつも見捨てるカトリック司祭やナチス判事(ブルーノ・ガンツ)の苦悶と、農夫の家族を排斥する村人らの相貌に戦慄する。

 映画『名もなき生涯』の主人公フランツ・イエーガーシュテッター(Franz Jägerstätter)は実在した人物で、1907年オーストリア北部の山村に生まれ、ナチスによる1938年のオーストリア侵攻時には、ドイツへの合併を問う国民投票で村唯一の反対票を投じた。その後ドイツ国防軍への徴兵を拒否したことから拘留、処刑へ至る。本作は彼の後半生に焦点を当てる、名匠テレンス・マリック初の実話映画化作品だ。

“Radegund” “A Hidden Life”

 

 ナチス政権下で処刑されたキリスト者としては神学者ディートリヒ・ボンヘッファーがつとに著名だが、この二人の軌跡は対照的であり、かつ意外な共通点をもっている。教養的な家庭に生まれ知的エリートの道を邁進したボンヘッファーは、ナチスに対する本質的な懐疑からヒトラー暗殺計画に関与し、彼の思想は戦後のキリスト教会に多大な影響を及ぼした。これに対し生涯を一農夫として終えた本作主人公フランツは、死後1970年代までオーストリア本国においてさえ名は知られず、列福を伴うローマ教会による名誉回復が為されたのは2007年のことだった。

 一方、ボンヘッファーが獄中から妻へ宛てた詩「善き力にわれ囲まれて」は讃美歌に取り入れられ、その書簡集が戦後日本語を含む各国語に翻訳され注目されたように、フランツもまた妻へ宛て多くの手紙を残しすでに刊行されている。『名もなき生涯』後半に響き続けるナレーションは、主にこの手紙から採られている。逮捕後には悪名高いゲシュタポ(秘密警察)が管轄したベルリンのテーゲル監獄へ収監された時期をもつ両者はまた、自然に対する穏やかな親しさを信仰上の基盤とする点でも共通する。「草の上に仰向けになって横たわり、その風を感じながら青い空の上を流れる雲を見、森のざわめきを聞いた」とはボンヘッファー『獄中書簡集』の一節(*1)だが、この自然との近しさがテレンス・マリック監督にインスピレーションをもたらしたことは想像に難くない。

“Jisas Yu Holem Hand Blong Mi (The Thin Red Line)”

 『名もなき生涯』においてテレンス・マリックは、全編を自然光による撮影とした。照明機器を使用しない常識外れの映像には酷く見づらい屋内場面も幾らか登場するが、犠牲を伴うその選択こそ彼の監督作では必然の帰結であった。無限の贈与としての陽光に創造主の片鱗を見、人の業に闇の深さをみるテレンス・マリックの眼差しは、そのフィルモグラフィー全体を貫通する。たとえば20年の沈黙を破り太平洋戦争を描いた『シン・レッド・ライン』(1998)においては、米軍と日本軍との凄絶なガダルカナル島の戦いの傍らで、草叢の葉を食む昆虫のクローズアップや、およそ近代戦とは無縁の狩猟採集生活をつづける在来住民が行軍中の小隊とすれ違うショットなどが幾度も挿入される。こうした各々数秒の挿入部は、映画の本筋である硝煙覆う戦闘シーンにくらべ際立って明るい陽の光に照らされる。本作の舞台であるソロモン諸島で陰惨な殺戮に心を傷め脱走兵となる主人公の若い白人兵士は、在来住民の海辺の集落に保護されてつかのま心の平安を得る。このとき彼が耳にするメラネシア系の賛美歌(上掲動画BGM)は、同じキリスト教のものでありながら欧米や日本のそれとはまるで音景を全く異にする。朗らかで開放感に充ちるその歌声は、南洋の青空へと高らかに響きわたる。

【映画評】 『あまねき旋律(しらべ)』 なぜあなたと歌うのか Ministry 2018年11月・第39号

 各々の風土に固有の和声を伴う賛美歌の調べは、かつて近世から近代にかけその土地を訪れた宣教師らが格闘した伝道の足跡でもある。この意味では西洋型ゴシック聖堂の堅牢な高天井に反響して耳朶へ降り落ちるカトリックの賛美歌もまた、古代中世へ遡るあまたの足跡の一バージョンでしかない。その土地土地で独自の発達を遂げた歌声は、それゆえにこそ電子的に規格化され効率化された今日の音楽環境では再現不能・伝達不能な歌の根源的な生命力へと直に結びつく。これに関連し、インド~ミャンマー国境域に暮らすナガ族の歌を追うドキュメンタリー『あまねき旋律(しらべ)』をかつてこの場で扱ったが、フィルムからデジタルへの移行を経て勇躍したテレンス・マリックがこうした歌声の本質性に自覚的でないはずもない。事実そのキャリア初期にカンヌ国際映画祭で監督賞を獲得した『天国の日々』(1978)は、フィルム映像やアナログ音響の特質を遺憾無く発揮したものである一方で、カンヌ最高賞を獲る『ツリー・オブ・ライフ』(2011)ではデジタル技術なしには表現不可能な領域へと踏み出している。『名もなき生涯』中盤において、高原で耕作する農民たちが労働歌を合唱する場面の質実な豊かさは、こうした背景に拠っている。

“A Tribute to Terrence Malick’s The Tree of Life”

 

 ちなみに先述した『シン・レッド・ライン』で初めて主役に抜擢された俳優ジム・カヴィーゼルは、陰惨な戦場のただなかにおいて独り心の静謐を保つような佇まいと瞳の清冽とが極めて印象深い演技をみせている。両の瞳の内なる網膜への肉薄がそのまま宇宙の理を開示するかのようなこの近接ショットは、テレンス・マリックの後続作『ツリー・オブ・ライフ』や『ボヤージュ・オブ・タイム』(2016)へと象徴的に継承され、またカヴィーゼル本人のキャリアにおいては、イエス・キリストを演じ世界的な物議を醸すことになる6年後の主演作『パッション』(メル・ギブソン監督作、2004)をもたらした。こうしてみれば、『名もなき生涯』をテレンス・マリック久々の充実作とみる筋の評が不当であることは明らかだろう。むしろその製作姿勢は驚くほど一貫しており、表面的な振れ幅の両端をつかまえその良し悪しを言い募る試みが生産的とはあまり言えない。

 しかしながらテレンス・マリック監督作をめぐっては、時代を画した名作『天国の日々』や『シン・レッド・ライン』を除くと、極端にその評価は二分されてきた。通常の映画文法を拒み、明示よりは暗示を好むこの監督固有の語り口は難解とされあるいは看過されがちで、たとえば『聖杯たちの騎士』(2015)は、こと日本ではクリスチャン・ベイルやケイト・ブランシェット、ナタリー・ポートマンやアントニオ・バンデラスといった21世紀ハリウッドを牽引するトップスターたちの競演する耽美的で“おしゃれ”な映画として宣伝され消費されたが、実は全編を占めるナレーションの多くがジョン・バニヤン『天路歴程』からの引用で構成されていた。ところが、プロテスタント世界では最も多く読まれた宗教書ともされるバニヤン『天路歴程』との関係性こそ『聖杯たちの騎士』の核であるにも関わらず、このことに言及する日本語記事は、批評・ジャーナリズムの別を問わず本紙記事のみに終わり、日本国内での劇場公開はごく短期に留まった。

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 『名もなき生涯』もまた現状、歴史上の美談を撮る映像詩という浅い評が世の趨勢を占めている。しかし本作によりテレンス・マリックが逆照射するのは紛れもなく、現代社会を生きる我々自身の姿だ。寛容よりは自己責任が叫ばれ少数者軽視への傾斜強まる社会風潮が世界を覆い、「帝国教会」による統一への動きなどプロテスタント・カトリックともにヒトラーへの宣誓を受け入れたナチス支配下の情勢は、神の家たる教会を含めイスラームや仏教系教団など特定の信仰集団が国家の統制・弾圧下に置かれる今日の中国と瓜二つだし、日本のキリスト教会が「万世一系の現人神」たる天皇を頂点とする国家秩序へ自ら参画した過去をもつことを想起するなら、本作が暗に皮肉を加える対象に現代世界や今日の日本社会が入らない理由はない。このことは、様々な言い訳をつくりだし隣国の苦境にさえも軽く目を背けることのできる現代の私たちこそが、日々赤裸々に証してもいる。その時々の情勢を鑑み、ぽっと出のヒトラーごときに教会を潰させるわけにはいかないからこそ面従腹背を断行した聖職者たちの判断を、後代の人間が安直に裁けると考える態度もまた浅薄に過ぎるだろう。他の誰でもなくナチスドイツの宣伝相ゲッベルスが、「戦死した英雄たちのヒロイズムを国民的な神話に拡大するような、戦死者に対する宗教的義務」をドイツ人はまだ持たないとして、それを実現させた当時の日本を賛美したことは示唆に富む。(*2)

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 テレンス・マリック作品の内包する表現性が優れて類稀なのは、このように痛烈な現代社会風刺と、創造主規模の宇宙的視座とが常に共鳴し、かつそのいずれもが明示されず仄めかしへ留まる点にある。映画や文学をめぐる言及にありがちな「この作品のメッセージは?」という種の歯の浮くようなショートフレーズへの集約を拒むこの姿勢は、たとえば『名もなき生涯』において主人公フランツへ最終的に死の宣告を下す軍人裁判官を演じる、名優ブルーノ・ガンツが浮かべる苦悶の表情に現われる。この裁判官役を務める老いた判事の軍服は仔細に見ればところどころで生地がほつれ、胴に下げる鉄十字勲章は古めかしい。それはナチス台頭以前のプロイセン期から軍人であった彼が具える誇りゆえの躊躇を覗かせる下地となり、観客はその逐一を自覚せずとも、こうした表現の総体を感受しうる。

 代表著作の一つ『現代キリスト教の倫理』周辺におけるボンヘッファーの主要概念の一つに、《究極的なもの》(die Letzten)と《究極以前のもの》(die Vorletzten)との対置がある。端的に言えば《究極的なもの》とは信仰義認論に示される恵みの全体を指し、《究極以前のもの》とは人間の言動を含む直接感覚しうる事象の全体を言う。このとき《究極的なもの》を志向するあまりそれがすでに既知既得、計算可能なものと前提されたとき、神的本質は損なわれ恵みは安価なものになる。そう私的するボンヘッファーに従えば、宗教美術をはじめ多くの表象が《究極的なもの》を志向するあまり偶像崇拝の謗りを免れないのもこれに近い道理と理解できるが、テレンス・マリックはこの愚を巧妙に回避する。むしろ具体物を通じ伝達されうる《究極以前のもの》の徹底により、鑑賞者の脳裡へ《究極的なもの》への機縁をあくまで予感させる。「《究極以前のもの》にたいしては、それをあたかも《究極的なもの》であるかのように絶対視することのない、非陶酔的な=醒めた関わり方を教えるもの」(*3)へ留める必要がある。この抑制的界面にこそ、表現者テレンス・マリックの精髄は宿っている。

“A HIDDEN LIFE | “We Lived Above The Clouds”

 

 上記に掲載した動画は『名もなき生涯』の一幕だ。冒頭に挙げた予告動画と異なり、宣伝向けの作為がない本編からの一部抜粋であるため、本作の特性がよりよく露出している。言表される心の動きや、描かれる意志的な行為にもまして、そこでは映しだす視線の存在そのものが多くを語る。交わされる会話は光景の一部となり、雲間や窓辺から降りそそぐ光こそが映画の言葉となる。

 “この世では、われらが見ることを拒まれたものを、ついに見いだしうるために。自由よ、われらはお前を、紀律と行為と苦難の中に探し求めた。”(*4)

 さて新型コロナウイルスが猛威を奮う今日、すくなくとも当分のあいだ社会の分断が一層進行することは避けがたい潮流と化した観がある。こうしたなか、いまこの瞬間にも拡大する差別や他者排斥に加担する者ではないと、あなたは本当に言い切れるか。その断言自体が何より加担の証とはならないか。コロサイ書に示されるよう、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている。『名もなき生涯』英題“A Hidden Life”の含意は烈しい。

(ライター 藤本徹)

全国順次公開中。

『名もなき生涯』 “A Hidden Life” “Radegund”
公式サイト:http://www.transformer.co.jp/m/forsama/

*1 D. ボンヘッファー E. ベートゲ 『ボンヘッファー獄中書簡集 「抵抗と信従」増補新版』 村上伸訳 新教出版社
*2 宮田光雄 『ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想』 岩波現代文庫
*3 D. ボンヘッファー 『現代キリスト教倫理 (ボンヘッファー選集)』 森野善右衛門訳 新教出版社
*4 E.ベートゲ 『ボンヘッファーの世界 その本質と展開』 日本ボンヘッファー研究会訳 新教出版社

【Ministry】 特集「となりの国のキリスト教★香港/中国編」 30号(2016年8月)

“kho ki pa lü” “Up Down & Sideways”

©2019 Twentieth Century Fox

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