カルト、抵抗、不可能性。 再監獄化する世界(6) 『ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言』『アウシュヴィッツのチャンピオン』『カールと共に』『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』ほか 2022年8月29日

 戦争当事国の首脳同士による応酬に、ナチスの語が頻出する今日景。

 ユダヤ人の大統領を名指した「ネオナチの脅威」が、侵略の大義にさえ据えられる光景のいびつさ。ほしいままに下された国連常任理事国による他国侵略の決断を、誰も翻し得ない現代世界という昏さ。その最期から77年経った今なおヒトラーの亡霊が、闇の総統地下壕跡からこの現実を嗤いつづけている。

 数百万人の一般市民を計画的に運搬し、収容して為されたナチスドイツによるジェノサイドは、言うまでもなく人類史的事件だ。そこには個別具体の執行者や犠牲者の内へとても収まりようのない人間の本性が、明晰に露出している。そしてこのあまりにも象徴的な明晰さは、型通りの言葉などではまったく汲み尽くし得ないからこそ参照されつづけ、新たな意味を放ちつづける。戦争とは何か。人間とは。

 ナチスドイツによる強制収容所/絶滅収容所におけるユダヤ人虐殺の再現描写ないし隠喩表現をめぐっては、その倫理的もしくは実践的側面からしばしば議論が巻き起こされてきた。表象不可能性が、これほど鋭く問われつづける社会事象は他にない。その一方、今年もナチス/ホロコーストをめぐる新たな映画が、続々と公開されている。本稿ではうち幾つかの作品を軸に据え、この潮流のゆくえを見定めたい。(ちなみに「ナチスによる強制収容所での大量虐殺」=「ホロコースト」ではない。文末補注*1に詳述)

 映画『ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言』は、ホロコーストの加害者側へ特化する一点において、あまたあるナチス関連ドキュメンタリー群の系譜中でも画期となる達成とまずは言える。エリート集団であったナチス親衛隊への在籍歴を、晩年を迎えた男たちがなお誇り、そして悔やむ。周辺へ雇用を生む強制収容所の存在が喜ばれた当時の空気を語る好々爺や、虐殺を知りながら否定してきた心の壁が崩れ去る老婦人の両の瞳を震わせる表情に戦慄する。老婦人はつぶやく。

 「私たちは見ていたけど、そんなことはなかったって言うことになっていた」

 監督ルーク・ホランドは、祖父母をナチスに殺されたユダヤ人ながら、本作に加害者を糾弾する種の激しさはない。老人たちが語るのはいずれも幼少期の記憶である。現在ドイツ人の平均年齢は男性78.7歳、女性84.8歳(WHO2020年)。77年前に消滅したナチス下のドイツを生で体験した世代へ取材する最後のチャンスを、感情的な障壁を超えて活かそうと試みたホランド監督自身が、本作を完成させた2020年のうちに鬼籍へ入った。これまでにもナチス宣伝相ゲッベルスの元秘書による103歳時の証言『ゲッベルスと私』(下掲「アウシュヴィッツの此岸」後半に詳述)など、単発では試みられてきた加害者側への肉薄を、このタイミングでなければ為し得ない規模と深さを以て『ファイナル アカウント』はやり遂げた。

 収容所生還者へのインタビューで構成されるクロード・ランズマンの超長編『SHOAH ショア』(1985年)が、映画にかぎらず被害者視点に基づく後続世代のホロコースト関連作品における共通基盤となったように、加害者側の人物造形をめぐり今後は『ファイナル アカウント』を参照した作品製作が一般化されゆくだろう。後代へ及ぼす影響の大きさをめぐり特定の作品がいわば権威と化すことの功罪はさておくとして、これは文字通りに「最後の証言」となった本作を、先に画期と評した所以でもある(*2)。

【映画評】 『ヒトラーを欺いた黄色い星』『ヒトラーと戦った22 日間』『ゲッベルスと私』 アウシュヴィッツの此岸 Ministry 2018年8月・第38号

 よく知られるように、ナチ党支配の出発点は民主選挙での勝利であった。ナチ党が議席を獲得するため、そしてのち専制を確立するため最大の資源としたのは、第一次大戦後のドイツ/プロイセン地域の苦境下における人々の不安と不満である。この不安と不満とを最大限に煽ることで力を増したナチズムは、理論的ベースをもつ社会思想の一つというよりいわば「ドイツ人」を排他的かつ疑似科学的に優位づける民族的カルトに近く、『ファイナル アカウント』後半に登場するドイツ人高齢女性の発言はこの意味で興味深い。収容所の近所で育った彼女は、ホロコーストはドイツ人に責任があると明言する。しかし、全てのドイツ人に責任があるわけではない、とも言う。ドイツ人。では誰に責任があるのか、とカメラ手前から監督が問いかける。すると彼女はこう答える。

 「それは神が決めること」

 用いられる文脈によりその定義にはかなりの幅があるものの、「カルト」の語はおおむね「伝統宗教からは異端視」される「特定のカリスマ的指導者に率いられた」「狂信的」で「反社会的」な集団を指す。神の死をニーチェが叫んだ19世紀後半以降、政治や社会経済と不可分の座から滑り落ち、近代社会の枠組みにより信仰が「個人の自由」の内側へと押し込められても、宗教は当の近代社会から疎外され孤立化した個人の寄る辺として機能する。そこでの営みから、既存の国際政治や資本経済を超越した現実を志向する、つまり反社会性を有する集団すなわちカルトが生まれるまではほんの一歩だ。

 映画『カールと共に』は、ベルリンで起きた爆弾テロで家族を失った若い女性マキシを主人公として、今日のカルトが力を増す構造を鮮やかに描きだす。世間から注目される身となったマキシは、メディアからの退避を助けてくれた男カールに導かれ、ある若者グループへ居場所を見いだす。しかしそこは右派集団を装うテロ組織で、マキシはその暴力的側面を巧妙に隠されたまま家族から引き離され、新しい仲間たちに温かく承認される。そしてネットメディアを通じ、若者グループの広告塔へと祭り上げられていく。観客は、映画の冒頭でマキシの家族を襲ったテロの実行犯こそカールであることが描かれているため、真実を知らないままカールへ心酔しゆくマキシの姿を通じ、孤独な心を狙うカルトの手口を嫌というほど思い知らされる(*3)。

 『カールと共に』は、ドイツとチェコの製作会社によるドイツ語作品であるにも関わらず、原題をフランス語“Je Suis Karl”とすることからも明らかなように、イスラーム過激派グループがパリで起こした2015年の《シャルリー・エブド襲撃事件》を発端とする“Je suis Charlie”(私はシャルリー)のムーヴメントを下地に敷く。ただしムハンマド(マホメッド)を嘲笑する戯画の掲載をくり返す仏紙シャルリー・エブドへの怨恨が「表現の自由」をめぐる国際的な連帯運動を生んだそれとは異なり、仕掛けられたカールの死によって始まる“Je Suis Karl”の掛け声はひたすらに移民排斥を訴える。マキシの家族の死とカールの死とを移民の犯行と断定し、グループの女性はTVカメラに向かい英語でこう叫ぶ。

 「私たちに異を唱える者は、カールの殺人犯と共犯だ」

【映画評】 『女は二度決断する』 女は二度死ぬ、 二度生まれる。 Ministry 2018年5月・第37号

 ここで想起されるのは、マキシと同じく移民排除を掲げる組織による爆弾テロで家族を失った主人公女性の道行きを描く『女は二度決断する』だ。実話ベースの本作でダイアン・クルーガー演じる主人公カティヤは、ネオナチ組織に属する犯行者男女の消息を突きとめ、復讐を志す。最終的にカティヤが自爆を企図するに至る内面の逡巡と決断の過程とを『女は二度決断する』がメインテーマとするのに対し、『カールと共に』が主眼に置くのは、あくまでマキシの瞳を通したカルト集団の先鋭化しゆく光景描写である点で鋭く対照的である。

 『女は二度決断する』が状況(場)から個の葛藤へ、『カールと共に』が個の絶望から場(状況)へと照射の方向性を真逆とするこの相違は端的に、監督自身の立ち位置の違いに由来する。『女は二度決断する』のドイツ人監督ファティ・アキンはトルコ系移民2世であり、その初期から移動する個人のアイデンティティ変容や故郷の喪失を主要テーマとしつづける。アルメニア大虐殺を生き延びた主人公による地中海と大西洋カリブ海を股にかけた流浪を描く『消えた声が、その名を呼ぶ』(ファティ・アキンの前半生と絡め下掲記事に詳述)は、この面におけるアキンの代表作である。

迫害と離散の歴史描く 映画『消えた声が、その名を呼ぶ』 2015年12月25日

 一方『カールと共に』の旧東ドイツ出身監督クリスティアン・シュヴォホーは、デビュー長編“Novemberkind”から一貫して旧東ドイツに暮らす人々と、旧東ドイツを記憶する人々とに焦点を当てつづける。

 このクリスティアン・シュヴォホーの最新作にして世界デビュー作といえるのが、今年初頭からNetflixにて世界配信されている『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』である。オクスフォードで幸福な学生時代を過ごした親友同士が、ナチス総統ヒトラーとチェンバレン英国首相の秘書官にそれぞれ抜擢され、チェコ・ズデーテン地方の帰属をめぐる1938年のミュンヘン会談下に再会し、第二次世界大戦の勃発回避へ挑む物語を描く本作は、2021年10月にロンドン映画祭で初上映された。

 2021年3月のベルリン映画祭がワールドプレミアとなった前作『カールと共に』までのシュヴォホー作品が、すべてドイツ語映画/ドラマで主にドイツ語圏市場へ向けた構成であったのに対し、ハリウッドでの活躍も目覚ましい英国俳優ジョージ・マッケイ、ジェレミー・アイアンズらを迎えた本作は、初めから世界市場へ向けた製作戦略が採られた点でも注目に値する。

 とりわけ目が引かれるのは、ナチス高官らを演じるドイツ名優陣の魂魄たぎる競演である。米英に先導された、ナチスと言えばこれまで悪役しか意味し得なかった英語圏映画の土俵上で、主演ヤニス・ニーヴナーや秘密文書を持ち出す外交部署事務員役サンドラ・フラー、親衛隊幹部役アウグスト・ディール、ヒトラー役ウルリッヒ・マテスといったドイツ語圏を代表する俳優たちが、戯画化されたナチスイメージを離れて各々一個の独立した精神と感情を有する人間を演じ切る様は、真に痛快だ。

【映画評】 抵抗と信従 『名もなき生涯』 2020年4月1日

 殊に後半、ミュンヘン会談進行下に密会するふたりの主人公を鋭い嗅覚により追い詰めるナチス将校へ扮するアウグスト・ディールの役作りが孕む激烈さには、ナチスによって痛めつけられる主人公を演じた近年の主演作『名もなき生涯』や『復讐者たち』の下地が陰翳深く反映されている。

 アウグスト・ディールが『名もなき生涯』で演じたのは、オーストリア片田舎の農夫である。侵攻してきたナチスドイツに背き、不殺の信念とキリスト信仰とを貫いた農夫の名が巷間に知られるのは、オーストリア国内においてすら半世紀を待たねばならなかった。同じくアウグスト・ディールが演じた、妻子の命を強制収容所で奪われた『復讐者たち』の主人公は、水道への毒物投下という形で大量の「ドイツ人」への復讐機会を手に入れた途端に呻吟する。

【映画評】 神はアウシュヴィッツを赦しうるか 再監獄化する世界(5) 『ユダヤ人の私』『ナチス・バスターズ』『アウシュヴィッツ・レポート』『ホロコーストの罪人』『沈黙のレジスタンス』『復讐者たち』ほか 2021年11月30日

 家族を殺した犯人を目の前に『女は二度決断する』のカティヤが陥る逡巡にも重なる『復讐者たち』主人公の苦しみは、「加害者」の内へ己に通じる人間をみとめ、その瞬間の己の内に彼らへ通じる「加害者」性を見いだすことでもたらされる。“その瞬間”に訪れる突如の当惑。これを『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』のアウグスト・ディール演じるナチス将校は、彼がスクリーン上へ現れるどの瞬間にも観客へ迫ってくる。しかもそれは逡巡や呻吟であるよりも、決断された暴力への意志により冷酷に襲い来る。ナチス軍装をまとい、鋭利な振る舞いによってこれを体現する演技の切れ味に、震えるほどの感動を覚える。この震えの由来はしかし、考えてみると案外深い。

 ヒトラーへ反旗をひるがえす役柄を英雄視するのはたやすい。たとえばそのヒーローイメージを陳腐なまでに徹底させた、ヒトラー暗殺計画を描くトム・クルーズ主演作『ワルキューレ』に対置したとき、『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』の今日性は一層明白なものとなる。『ワルキューレ』が描くのはナチスが敗戦へ傾斜しだした時点におけるヒトラー暗殺を伴うクーデター計画(1944年7月20日事件)であったが、『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』はナチス政権の軍事的暴走の端緒となったズデーテン地方併合時に実在した、ドイツ国防軍幹部らによるクーデター計画を背景とする。

 ナチス支配下のドイツでは、のち連合国によりその事績を意図的に黙殺ないし歪曲された反ナチスの市民グループが数百という単位で大量に存在した。その看過と忘却は、彼らが戦後の占領国行政にとって己の主導権を狭めかねない都合の悪い存在であったゆえ意図的に為されたが、その一方で西側占領行政は、貴族出身のドイツ軍人クラウス・フォン・シュタウフェンベルクがヒトラー暗殺失敗により銃殺刑にされた事件を「数少ない」戦時下の反ナチ事例として英雄視することで戦後統治へ利用する。すでに処刑された、たったひとりの軍人であれば都合は良い。こうした圏域での歴史研究が活発化したのはドイツ統一後の混乱が落ち着きをみせた2000年代以降であり、2008年公開の映画『ワルキューレ』は、いわば戦勝国プロパガンダ施策が半世紀後に咲かせた徒花とも言える(*4)。

 ここでトム・クルーズが扮したシュタウフェンベルク像に対し、『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』でアウグスト・ディールの演じる最後までヒトラーへ忠実なナチス将校フランツが圧倒的に優れて映る主な理由は、ドイツ側主人公ポールとの交接場面に起因する。ヒトラー秘書官となったポールは、実はオクスフォード時代からの恋人レナがユダヤ人であることを理由に強制収容所で拷問を受け、再起不能の傷を負った過去をきっかけに反ナチとなる。それ以前は熱烈なヒトラー信奉者であり、英国側主人公ヒューとは政治的立場から過去に喧嘩となり疎遠になっていた。つまりナチス将校フランツは、もし反ナチとなる機縁をもたなければポールがたどっていたろう可能的な似姿として、いわば3人目の影の主人公ともいえる鏡像関係のうちに配されている。そこでは「戦後映画産業にとって便利な悪役イメージ」や「アイヒマン裁判を膨張したハンナ・アーレントの言う“凡庸な悪”」の体現者ではないナチス将校同士の対峙が、「ドイツ人」当事者同士の熱演を通し描かれる。ナチスの軍服をまとう、血肉の通った「個別のドイツ人」の姿に「震えるほどの感動」は由来する。

 「それは神が決めること」と反射的に答えた『ファイナル アカウント』の高齢女性が抱える、内面化された「ドイツ人一般」を悪者とみる視線と、目の前の現実を生きる「個別のドイツ人」との齟齬がもし芸術表象を通し克服されるとすれば、それはまず『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』のような仕方によってだろう。〝陳腐な英雄化〟は、〝凡庸な悪〟イメージの変奏曲に他ならない。悪が存在するのは人間の陳腐さの内にであって、特定集団に限定され得ない。この意味でもナチス表象/ホロコースト表象は、いまなお変容発展を遂げるさなかにある。

 『アウシュヴィッツのチャンピオン』は、絶滅収容所で見世物としてリングに立たされつづけ、囚人の希望となった実在のボクサーを主人公とする劇映画だ。凄惨な収容体験を描く数多い過去作群に比べ本作が際立つのは、舞台であるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の描写がもつ多面性においてである。監督マチェイ・バルチェフスキは収容所生存者の孫にあたるポーランド人であり、またナチス親衛隊や看守らもすべてドイツ語を話すポーランド人俳優が演じており、冷酷な悪人一辺倒の表現に傾きがちな彼らナチス軍属を人間的に描く点でも『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』に通じる新鮮味豊かな演出が施されている。ドイツ人スタッフ・俳優によるナチス表象の最前線が『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』だとすれば、ナチスの爪痕を最も残す土地ポーランドにおけるナチス表象の最前線がここにある。

 映画分野では従来好まれた敵味方の明確な構成が、ハリウッドの勧善懲悪を旨とする娯楽ヒーロー物においてすら近年は忌避され、ポリティカリー・コレクトネスや少数者視点への配慮が全面化する傾向にある。この傾向は、わかりやすくこれまでマッチョな白人男性が占めてきた英雄譚の主人公を女性や有色人種、同性愛者や障碍者へ置き換えるだけでなく、目につきにくい細部へ至るまで映画の構成要素を一新しつつある。たとえば体重が30キロ差あるドイツ人王者との白熱する対決場面をハイライトとする『アウシュヴィッツのチャンピオン』が他方の軸とするのは、人種など分け隔てなく人間をみつめる収容所所長の幼い息子が放つ視座である。『ファイナル アカウント』で語る人物の半数は、親衛隊でも看守でもなく収容所近隣で幼少期を過ごした老人たちである。これらもまた人種や性差などとは別種の、見過ごされてきたマイノリティ視点には違いない(*5)。

 またアウシュヴィッツをはじめドイツ語圏の外で営まれた強制収容所において、職員の多くはドイツ人でなく近隣の現地住民である点もこれまで見過ごされがちであった。収容所の地獄から一歩出ればそこには牧歌的な風景が広がっていたことは『アウシュヴィッツ・レポート』(上掲「神はアウシュヴィッツを赦しうるか」に詳述)でも描かれたが、「私たちは見ていたけど、そんなことはなかったって言うことになっていた」と『ファイナル アカウント』で話すドイツの老婦人が託った怯えに近い構造が、そこには垣間見える。収容所内で見聞きしたことを漏らせば自身が囚人となりかねない恐怖を一旦受け入れたポーランド社会が、そこから脱するには想像を超える時間を要した。  

 アルフレッド・ヒッチコックは戦後まもない頃、解放直後の強制収容所を撮影した映像の編集について助言を求められ、この仕事に必要なのは自身が得意とする犯罪/捜査のモンタージュではなく、「何も分け隔てないモンタージュであることを、ただちに理解した」(*6)という。すなわち犠牲者の遺体とドイツ側責任者の見つめる光景を一緒に提示する必要があり、長いパノラマ撮影をできるかぎりカットせず収容所の鉄条網とそれを取り巻く牧歌的な社会環境とを切り離してはならないと、素材をみて即座に直観した。この映像の天才による70年前の直観を、『ファイナル アカウント』の穏やかな老人たちが遠くを眼差す横顔により、今日の映画はついに十全と現出させ得た。

怪物は存在する。だがあまりに少数ゆえ真の危険にはならない。
むしろ危険なのは普通の人間だ。彼らは何ひとつ疑うことなく、信じ込む。
(プリーモ・レーヴィ 1919-1987)

 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所からの生還者プリーモ・レーヴィが残したこの警句を序幕へ配する『ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言』を筆頭に、ここまで今年日本公開ないし配信開始となったナチス/ホロコースト映画を軸に述べてきた。本紙映画記事欄では可能なかぎり関連する公開新作の網羅を試みてきたが、手数に限界はむろんある。ナチス台頭時のベルリンを舞台とする『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』や、レニングラード包囲戦を生き抜き重度のPTSDを患うロシア人女性を主人公とするスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ原作の『戦争と女の顔』、独ソ戦下のキーウ近郊でたった2日間の内にユダヤ人3万3771人が虐殺された事件を描くセルゲイ・ロズニツァ監督作『バビ・ヤール』(*7)、迫害されたロマ出身の女性が渡米してなおナチスの悪夢に苛まれ近所の男を拘禁する『マヤの秘密』、ナチスの両親をもつ老指揮者がパレスチナとイスラエルの若い演奏家をまとめあげる『クレッシェンド 音楽の架け橋』など、今年日本で公開された(『バビ・ヤール』は9月24日公開)関連の良作は他にも数多い。またナチス検閲を魔女狩り描写によってくぐり抜けファシズムの愚を痛烈に抉ったカール・T・ドライヤー1943年の傑作『怒りの日』“Vredens Dag”を鮮明化した4Kレストア上映も、刮目すべき達成だった(*8)。

 先に『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』の今日性へ触れたが、今日的であることは必ずしも新しさを意味しない。先進的要素も多い『アウシュヴィッツのチャンピオン』の主人公がボクサーであることは、この意味ではむしろ今日的であることの〝古さ〟をも考えさせる。ウクライナでの戦争は今現在も進行中だが、周知のようにウクライナ政府は60歳までの成人男性の出国を禁止した。女子供を逃がし、男は国を守るというあまりにも古典的な家族/国家秩序復権の物語。よく知られるようにゼレンスキー大統領は直近に大統領役の主演ドラマをもつ俳優出身で、首都キーウの市長ビタリ・クリチコは奇しくもボクサー出身、それも世界ヘビー級王者すなわち本物のチャンピオンである。すでに関係各国の落とし所を探る消耗戦と化した感のあるウクライナの戦争も、いずれは終わる。凄まじいバックラッシュの時代があとにつづくという強い予感が、どうにか外れることを祈るばかりだ。

 ナチスドイツ消滅後77年を経て、ここまで述べたようになお活況を呈するナチス映画量産の背景には、冷戦崩壊によりソ連がハリウッド悪役の座から滑り落ちたことも大きい。イスラーム圏諸国や中国を安易に悪者へ据えることはグローバル化した映画市場がもはや許さず、この圏域でナチスは今後も実態とはおよそ無関係な表象としても生き延びつづけるのだろう。今年5月に日本公開されたミッキー・ローク出演の『ウォーハント 魔界戦線』や、フィリップ・K・ディック原作小説のナチスと大日本帝国が二分する架空の戦後世界をリドリー・スコット製作総指揮でドラマ化した『高い男の城』が体現するような、魔術性やSF的想像力と結びつけられたナチス表象はそのわかりやすい一例だ。

 その同じ5月には、「ヒトラーにもユダヤ人の血が入っていた」とするロシア外相の発言が物議を醸した。一方で国際政治はそれ自体の要請により、またメディアはメディア自身の必要により、強制収容所がいまだこの地球上いたるところに健在であり新たに建設中であることから世間の耳目を逸らせつづける。その一部では当事者たちからSNSを通し、外界から閉鎖された環境下で洗脳教育を施される政治的カルト状況の現出も告発されている。目下進行中のコロナ禍とウクライナ侵略戦争という世界史的事件の〝次〟に来るものは、目に映らない物陰ですでに着々と準備を終えつつあるのだろう。スポットライトの当たる場所ではナチスとの激闘史を国家の誇りとしてソヴィエト連邦から引き継ぐロシアが今日、あたかも鏡像を欲するかのようにナチスイメージを刻々と強化する。

 いまだ一つの幽霊が、世界をさまよっている。

(ライター 藤本徹)

『ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言』 “Final Account”
公式サイト:https://www.universalpictures.jp/micro/finalaccount
2022年8月5日より全国順次公開中

『カールと共に』 “Je Suis Karl”
公式サイト:https://www.netflix.com/title/81441697
2021年9月16日より世界配信中

『ミュンヘン:戦火燃ゆる前に』 “Munich: The Edge of War”
公式サイト:https://www.netflix.com/title/81144852
2022年1月21日より世界配信中

『アウシュヴィッツのチャンピオン』 “Mistrz”“The Champion of Auschwitz”
公式サイト:https://unpfilm.com/COA/#modal
2022年7月22日より新宿武蔵野館ほか全国順次公開中

【補注】

*1 「ホロコースト」の語は、ラテン語の“holocaustum”に由来する。直截には燔祭(焼き尽くす献げ物)を意味したことから殉教の犠牲というニュアンスが付加され、ナチスによるユダヤ人大虐殺を指す語として定着した。この言葉の一般への普及は比較的新しく、アウシュヴィッツ生還者である作家エリ・ヴィーゼルによる提唱を経たのちの、1970年代末のアメリカ製テレビドラマ”Holocaust”が契機とされる。ちなみに、アウシュヴィッツ生還者の手記として日本では恐らく最も著名なV・E・フランクル『夜と霧』に「ホロコースト」の語が登場しないのは、原書の出版が1946年であるからだ。

 ナチスによる大虐殺に宗教性を色濃く伴う「ホロコースト」の語をあてることについては、元来強い批判も存在する。イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは、甘美な犠牲に結びつくこの語の使用はむしろ本質的にキリスト教的であり、「理由のない(sine causa)死を正当化しようとし、意味をもちえないように見えるものに意味をほどこそうとする、この無意識の欲求から生まれている」としている。(『アウシュヴィッツの残りもの ― アルシーヴと証人』)

 にもかかわらず、筆者が「ホロコースト」の語を使用するのは、この「無意識の欲求」という指摘ゆえである。学生時に自身が企画した美術展示の関連で渡独した際、ユダヤ人虐殺のためのガス室と焼却施設をもつダッハウ強制収容所を筆者は訪れた。それはまさに言絶の体験であり、平常心を保ったままそのものを引き受け、たやすく発語に乗せられるような経験ではまったくなかった。強制収容所を生き抜いたユダヤ人作家プリーモ・レーヴィは、「その言葉が生まれたとき、わたしはとても不快だった。のちにそれを造り出したのがほかでもないエリ・ヴィーゼルだということを知った」「わたしはホロコーストという言葉が好きではないので、できれば使いたくないのである。しかし、そのほうが通じやすいので、使うことにする」と語る。(『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』) 一方、アガンベンは「アウシュヴィッツと聖書のolah、ガス室での死と「神聖で至高の動機にたいする全面的な献身」を結びつけることは、愚弄としか思えない」「この語をあいかわらず使う者は無知か無神経さ(あるいはその両方)を露呈しているのである」と痛烈に応酬する。日本語文脈か否かを問わない視座からはとりわけ転倒して映るだろうが、この間隙に自覚的であることは、単に己個人が語の使用を控えるということを意味してはならない、と筆者は考える。語に宿る宗教性にすがることなくして、アウシュヴィッツという地名以上の意味性を伴う語が浸透し得たともまた思えないからだ。

 ちなみに以上は4年前の記事「アウシュヴィッツの此岸」提出原稿からの抜粋であり、当時の掲載記事からは編集部判断により削除された部分である。結果記事は用語的にかなり脇が甘いものとなったが、本項の主旨はそも厳密性を重視しない映画紹介欄ゆえやむを得ない。また端的に言えば、同性愛者や障碍者、ロマや現地住民(ポーランド人等)も犠牲となった強制収容所でのジェノサイドを、ユダヤ教文脈の一語で表象するのは不当である。

*2 「表象不可能性」の語は、否定神学言説に絡め捕られる形でポストモダン潮流下の現代思想哲学ないし批評文脈において過度に一般化され、ホロコースト表象におけるクロード・ランズマン『SHOAH ショア』の格付けを権威化ないし無謬化した。『ショア』をアリバイとして想像不可能、表象不可能と言っておけばホロコースト表象をめぐる問題圏はとりあえずクリアされるかのような空気支配の先にはしかし、相対主義や文化多元主義が嵌りリベラル言説が総じて陥りがちな論理的隘路が待つのは必定だろう。なおこの場合の不可能性とは、人間の能力ではなく倫理性を問うものであったが、結局のところこれらはまずイメージの現前により乗り越えられる。現在日本開催中の《ゲルハルト・リヒター展》は、リヒターという戦後の現代美術を牽引し続けてきたドイツ人芸術家によるホロコーストを主題とした絵画大作《ビルケナウ》(2014年、下掲図版)が展示されており、リヒターがこの《ビルケナウ》制作の起点とした、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でゾンダーコマンドのユダヤ人男性によって隠し撮られた写真4点も併設展示されている。

《ゲルハルト・リヒター展》
東京国立近代美術館 2022年6月7日~10月2日
豊田市美術館 2022年10月15日~2023年1月29日
公式サイト:https://richter.exhibit.jp/

ゲルハルト・リヒター《ビルケナウ(CR: 937-1~4)》 2014年 ゲルハルト・リヒター財団蔵 © Gerhard Richter 2022 (07062022)

 これら隠し撮られた写真4点の存在が『ショア』公開の1985年には世に知られず、1990年代以降になって周知されだした点は重要だ。表象不可能性をめぐりランズマンは「もしナチス兵が収容所内の虐殺を撮影した写真イメージがあったとしても破り捨てるべき」とまで発言したが、ならば現実にこの4点を前にして私たちは何を思う〝べき〟なのか。撮影主体の差異はその答えにどう影響するか。また〝ドイツ人〟がこれを素材とする絵画制作に取り組むことの倫理性は。《ビルケナウ》において4点からなる絵画本体とは鏡面配置をとる《ビルケナウ(写真ヴァージョン)》4点が向かいの壁に展示され、この〝写真ヴァージョン〟のみ各々十字により分かたれている。この十字に分かつ行為の意味は。たとえばランズマンの唱える熾烈な倫理性の底には、ユダヤ教における偶像(イメージ)崇拝への禁忌が根強く息づくがゆえに、ここから個別特殊を超えた一般化を試みることこそ不可能とさえ思える。なお、こうした問題束をめぐる映画分野からの最も優れた応答は現状、ネメシュ・ラースロー『サウルの息子』(2015年)に集約される。この点は「神はアウシュヴィッツを赦しうるか 再監獄化する世界(5)」に詳述した。

*3 若者世代の信仰と精神的孤立、カルトへの傾倒を描く映画としては、修道院を波紋となった少女がイスラーム過激派テロへ身を投じる過程を描く2009年のブルーノ・デュモン監督作『ハデウェイヒ』“Hadewijch”(本稿末尾に作品ツイート掲載)が特筆に値する。パリを舞台とする本作は、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件へ至る流れを予見したとも評された。

*4 戦時下の反ナチ抵抗活動、及び戦後の占領国行政による歪曲/隠蔽をめぐっては、對馬達雄著『ヒトラーに抵抗した人々』(詳細下記)に詳しい。映画『ワルキューレ』について本文では一方的に腐す調子となったが、映画単体としての水準は決して低くはなく、むしろ高度にウェルメイドであるからこそ批判に値する。その対置構図は、過去記事「神はアウシュヴィッツを赦しうるか」における『ショア』に対する『シンドラーのリスト」の位置に似る。

*5 これとは対称的な作品として、捕虜となったナチス兵が収容所内の賭けPKからサッカー選手としての頭角を現していく英国映画『キーパー ある兵士の奇跡』(2018年)がある。映画文脈に限定すれば、捕虜のナチス兵への焦点化はわかりやすくマイノリティ視点の事例といえる。

*6 引用出典:ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(詳細下記)p.177

*7 『戦争と女の顔』(2022年7月15日より全国順次公開中)『バビ・ヤール』(同9月24日より全国順次公開予定)の両作をめぐっては、別の記事シリーズ「ルーシの呼び声(4)」にて近日扱う予定。

*8 ナチス/ホロコーストそのものでなくその周縁を描く今年国内上映があった秀作として他に、第一次大戦下ドイツ軍に徴用された息子の行方を兵士になりすまして探すデンマーク人の母親を主人公とする『戦場のエルナ』と、1980年代西ベルリン防衛の兵役に就くフランス人青年を主人公とする音楽映画『マグネティック・ビート』をここに挙げておく。(本稿末尾に作品ツイート掲載)いずれからも本稿の執筆動機に深く関わる刺激を受けた。『戦場のエルナ』は第13回京都ヒストリカ国際映画祭(2022年1月22日~30日開催)上映作、『マグネティック・ビート』はSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022(2022年7月16日~24日開催)上映作。映画業界の情勢は厳しさを増す一方ながら、こうして一般の商業配給ルートに乗らずとも質実な海外映画の国内上映機会に触れられる文化状況が維持存続されることを願うばかりである。

【謝辞】

本記事掲載にあたり、山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)さんに貴重なご助言をいただきました。感謝いたします。

【主要参考引用文献】

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』 橋本一径訳 平凡社
對馬達雄 『ヒトラーに抵抗した人々 – 反ナチ市民の勇気とは何か』 中央公論新社
プリーモ・レーヴィ 『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』 竹山博英訳 朝日新聞出版
ジョルジョ・アガンベン 『アウシュヴィッツの残りもの ― アルシーヴと証人』 上村忠男・廣石正和訳 月曜社
四方田犬彦 『聖者のレッスン 東京大学映画講義』 河出書房新社
桝田倫広 鈴木俊晴監修 『ゲルハルト・リヒター』 青幻舎
『ユリイカ 2022年6月号 特集ゲルハルト・リヒター』 青土社
浜本隆志 『魔女とカルトのドイツ史』 講談社
細見和之 『フランクフルト学派』 中央公論新社

【関連過去記事】

【映画評】 憑依する肉声 再監獄化する世界(1) 『死霊魂』 2020年8月12日

【映画評】 敵対と猜疑のゆくえ 再監獄化する世界(2) 『誰がハマーショルドを殺したか』『プリズン・エスケープ 脱出への10の鍵』『オフィシャル・シークレット』『ジョーンの秘密』『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』『ソニア ナチスの女スパイ』 2020年8月28日

【映画評】 不穏の残響、神戸の近代。 再監獄化する世界(3) 『スパイの妻<劇場版>』  2020年10月16日

【映画評】 グアンタナモの倫理 再監獄化する世界(4) 『モーリタニアン 黒塗りの記録』 2021年10月29日

【映画評】 神はアウシュヴィッツを赦しうるか 再監獄化する世界(5) 『ユダヤ人の私』『ナチス・バスターズ』『アウシュヴィッツ・レポート』『ホロコーストの罪人』『沈黙のレジスタンス』『復讐者たち』ほか 2021年11月30日

【映画評】 『サウルの息子』 極限状況を生き抜く信仰と祈り 2015年5月15日

【本稿筆者による言及作品別ツイート】(言及順)

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