「ブラックホール型」か「超新星型」か 牧師を燃え尽きさせる二つの罠 2026年8月15日

説教、牧会、訪問、会議、教会事務、広報、会堂管理、地域活動――。牧師不足と教会員の高齢化が進む日本では、一人の牧師が複数の教会を担当しながら、教会に関わるほぼすべての業務を抱えることも珍しくない。
そんな牧師の「燃え尽き方」を、「ブラックホール」と「超新星」という二つの天体になぞらえたユニークな論考を、米キリスト教誌『クリスチャン・センチュリー』が8月3日に掲載した。執筆したのは、米テキサス州ダラスのクライスト・ルーテル教会牧師、ベンジャミン・J・デューホルム氏。牧師候補者の面接や指導にも携わってきた経験から、牧師が陥りやすい二つの「失敗の型」を挙げている。
一つは「ブラックホール型」。仕事や責任を自分のもとへ引き寄せ、抱え込んでしまう牧師だ。他人に仕事を任せることができず、自分が得意で管理しやすい領域に教会の働きを集中させる。必ずしも内向的な人物とは限らない。説教、礼拝、神学、牧会など、自分が「ここなら責任を持てる」と思う領域を守ろうとするほど、結果的にさまざまな仕事や判断が一人に集中していく。
これは日本の教会にとって、ことさら他人事ではない。全国的な牧師不足を背景に、無牧や兼牧はすでに例外的な事態ではなくなっている。2026年3月に公開されたCGNのドキュメンタリー「牧師のいない教会」では、全国約7700のプロテスタント教会のうち456教会が無牧で、兼牧・複数牧会を含めると約15%が専任牧師不在の状態にあるとの推計が紹介された。
日本福音ルーテル教会が7月に公表した全国教師会・退修会の報告も深刻だ。同教会では1992年、144教会に対して邦人牧師152人、宣教師48人がいたが、現在は116教会に対して教職62人。複数教会の担当や施設との兼務、教会行政、神学教育などを担い、「ほぼすべての牧師たちがオーバーワークといってよい状態」にあると報告している。実際、体調を崩して休職したり、中途退職したりする教職も相次いでいるという。
デューホルム氏が挙げるもう一つが「超新星型」だ。こちらは仕事を抱え込むというより、絶えず外へ向かってエネルギーを放出する。新しい企画を立ち上げ、社会問題に関わり、人と会い、発信し、教会を動かし続ける。活力に満ちた牧師として評価されやすい。
しかし、活動を拡大するうちに、自分がどこから出発したのかを見失う危険がある。本人だけでなく、同僚や信徒までその活動量に巻き込み、疲弊させてしまう。
「ブラックホール型」が何でも自分の中へ吸い込むなら、「超新星型」は自分自身を外へ放出し続ける。方向は正反対でも、どちらも「牧師自身が教会の働きの中心になりすぎる」という点では共通している。
厄介なのは、どちらの働き方も教会では「熱心」「献身的」と評価されやすいことだ。牧師が休日にも電話に応じ、深夜まで説教を準備し、病院を訪問し、会議資料を作り、週報を印刷し、会堂を掃除する。それが長年「良い牧師」の姿として受け止められてきた教会も少なくない。
だが、牧師不足が進めば、そのモデルはさらに維持困難になる。日本福音ルーテル教会北海道特別教区では、3人の教職で4教会・6礼拝堂を担い、250~300キロ圏に及ぶ広域兼牧を続けている。日本ホーリネス教団も兼牧に伴う交通費や外部講師謝礼を支援する制度を設け、2025年度には18件を支援した。牧師の善意や使命感だけでは支えきれない段階に来ていることを、各教派の対応そのものが示している。
問われるべきなのは、牧師が「もっと上手に休む方法」だけではない。そもそも説教、牧会、教育、事務、財務、広報、施設管理、地域活動までを一人の牧師に集中させる教会のあり方が持続可能なのかという問題である。
デューホルム氏が牧師候補者との面接で尋ねるようになった質問が印象的だ。「あなたにとって、失敗とはどんな姿をしているのか」。さらに、「放っておけば、自分を崖っぷちまで追い込む傾向は何か」と問う。
牧師に必要なのは、自分には弱点がないと証明することではない。自分がブラックホールになりやすいのか、超新星になりやすいのかを知り、それに抗うことだという。日本の教会に置き換えれば、この問いは牧師だけに向けられるべきものではない。
なぜ牧師が休むと礼拝や教会運営が立ち行かなくなるのか。なぜ信徒に委ねられる仕事まで牧師が担っているのか。なぜ「牧師なのだから」と際限なく役割を期待してしまうのか。近年は、牧師と信徒が牧会を共同で担う仕組みを整えようとする動きも出ている。信徒が「牧師の代わり」になるのではなく、教会全体が互いをケアする主体になるという発想だ。
牧師の燃え尽きを個人の体力や信仰の問題に還元している限り、ブラックホールも超新星も生まれ続ける。「あなたはどちらの型か」と牧師に尋ねるだけでは足りない。「私たちの教会は、牧師をどちらの型へ追い込んでいないか」。日本の教会が今、共に問うべきなのは、むしろそのことではないか。














