【この世界の片隅から】 「大いなる艱難の時」に――中国カトリック教会が歩んだ道(8) 中津俊樹 2025年6月11日

 「プロレタリア文化大革命(1966~76年、文革)」は1966年8月以降、「紅衛兵」による暴力、破壊行為を伴いながら中国社会全体へと拡大した。それと同時に、宗教に対する攻撃も激化していくこととなった。紅衛兵にとって、宗教は打倒すべき「四旧(旧文化・旧習慣・旧思想・旧風俗)」であり、宗教への敵対的行動や破壊行為、聖職者への迫害は何ら躊躇すべきものではなかった。一方で、そのような行為が信仰に生きるすべての人々に計り知れないほどの苦痛をもたらしたであろうことは、想像に難くない。紅衛兵にとっての「革命」の時代は、信仰者にとっては神聖な存在が冒涜され、その教えが「革命」の「大義」によって蹂躙される――そして、それが「正義」とされる――事態を目の当たりにせざるを得ないという点において、まさに「大いなる艱難の時」そのものであった。 

 カトリック教会もその例外ではあり得なかった。中国のカトリック教会は、文革の開始直後から紅衛兵による激しい攻撃にさらされた[中津、2024年]。このような状況はすべての宗教に共通するものであったが、カトリック教会の場合はさらに「帝国主義者の手先」という非難が加わった。しかし、中国のカトリック教会は「中国天主教友愛国会」(後の「中国天主教愛国会」、以下「愛国会」)の成立(1957年7月)により、バチカン(ローマ教皇庁)を頂点とするカトリック教会と断絶し、それ以降は共産党の「統一戦線」政策のもと、中国政府と共産党の監督下での活動を余儀なくされていた。換言すれば、中国の「カトリック教会」である「愛国会」は、文革期にはすでにバチカンや世界各地のカトリック教会との間で何らの関係も有していなかったのである。この事実を踏まえるならば、「愛国会」を「帝国主義者の手先」として糾弾する紅衛兵の行動は、理不尽極まりないものであったといえる。

 だが、自らの「革命性」に熱狂する紅衛兵がこの点に思い至ることはそもそも、あり得なかった。同様に、共産党・国家の指導部も「統一戦線」の対象であるはずの「愛国会」を保護しようとはしなかった。のみならず、共産党・国家の指導者が紅衛兵の行動を事実上、「愛国的」なものとして賞賛するに及び[中津、2009年]、紅衛兵による「愛国会」への破壊行為を止め得るものはなくなったといってよい。バチカンとの交わりという、カトリック教会の生命そのものといえる関係を自ら断ち、共産党との妥協を選んだ「愛国会」にその後10年も経ずして降りかかったものが文革の嵐、そして「帝国主義者の手先」としての迫害という「大いなる艱難」だったという事実は、あまりにも皮肉な現実であった。

 しかし、「愛国会」の成立を巡る経緯とは関わりなく、信徒たちは文革という「艱難」の渦中にあってもキリストへの愛を失うことはなかった。同様に、「愛国会」から距離を置き、ローマとの一致を密かに守っていたカトリック教会の聖職者、信徒たちも、揺るぎない信念をもって信仰を守り続けた。そして、両者は立場を異にしつつも、文革という「闇」の中にあった中国に、キリストの愛という光を輝かせることとなるのである。

【参考論文】
・中津俊樹「中華人民共和国建国を巡るカトリック教会・ローマ教皇庁の動向――カトリック教会・ローマ教皇庁の視点からの分析」『中国21』Vol.32、愛知大学現代中国学会編、東方書店、2009年12月。
・「バチカン・中国関係の展開をめぐって――『原則』と『一致』のあいだで」『アジア経済』Vol.65、No.1 独立行政法人日本貿易振興機構アジア経済研究所、2024年3月。
・「『荒らす者』が立った時――中国カトリック教会が歩んだ道(7)」『キリスト新聞』2024年11月21日。

中津俊樹
 なかつ・としき 宮城県仙台市出身。日本現代中国学会・アジア政経学会会員。専門は中国現代史。主要論文は「中華人民共和国建国期における『レジオマリエ』を巡る動向について」(『アジア経済』Vol.57,2016年9月)など。

【この世界の片隅から】 「荒らす者」が立った時――中国カトリック教会が歩んだ道(7) 中津俊樹 2024年11月21日

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