【映画評】 『ノア 約束の舟』/『イーダ』/『大いなる沈黙へ』 聖書と人間と信仰の持つ身体性 2014年6月13日

 古今東西、聖書はさまざまな芸術の題材となってきた。たとえば1928年米国のマイケル・カーティス監督による『Noah’s Ark』は好例である。第一次世界大戦に重ねて旧約聖書ノアの大洪水を描いた作品である。聖書物語の魅力はクリエイターたちを惹きつけてやまない。

 

 2014年6月、ダーレン・アロノフスキー監督による『ノア 約束の舟』が公開された。公開されると同時に、聖書の記述通りではないという批判がネットを中心に多くの牧師や信徒たちの声として見受けられた。

 では映画『ノア』は不信仰で涜神的な内容なのだろうか。確かに聖書の記述そのままではない。しかし聖書が言語で記されている以上、映像化するために作家の感性、解釈が入るのが当然であろう。今回はこの夏に公開された三つの映画を読み解きながら、プロテスタント・キリスト教視点で映画を観るだけではなく「映画を読む」楽しみについて考えたい。先に結論を言うと、映画を読むことはヨハネの黙示録を読むことに似ている。黙示録は言語的な表現よりも、多様な映像イメージや象徴によるイエスの表現なのだ。

 映画の消費の仕方を類型化しよう。
 第一の形は、制作者目線で映画を読み解くことだ。第二は、商業的・技術的観点から映画を把握していくこと、第三は、表象文化論や社会学の視点で映画の影響、内容を理解すること、最後に、映画を会話のネタとして、つまりコミュニケーションの手段として観る消費の仕方がある。皆さんはどのように映画をご覧になっているだろうか。

 映画『ノア』は旧約聖書全体のさまざまな普遍的問いかけを、ノア一家の葛藤として描いており、映像と音響も含めて素晴らしい作品となっている。創世記を下敷きにしつつ旧約外典エノク書やヨベル書を背景にして、人間ノアの苦渋を旧約聖書の豊饒な水脈に流しこんで描いている。

 アロノフスキー監督はユダヤ人家庭に生まれ、イスラエルではイェシバにも滞在していた。すなわち、映画『ノア』は聖書を知らぬ人が適当に作ったものでなく、むしろ真摯で才能ある芸術家が描いた渾身の作品である。自然と人間、信じた者と信じない者、労働の意味と呪い、出産と不妊、父と子の確執、兄弟間の争い、双子、荒野に流れ出る湧き水、罪を贖うための戦い、赦し、痛みを癒す風、悪の起源、神の主権と人間の祈り、神の沈黙と人間の叫びが、ノアとその家族の物語として織り込まれている。

 聖書に通暁した読者ならば、アブラハムとイサク、ヤコブとエサウ、アダムの孤独などをさまざまな場面で見出すだろう。
 全編を通して印象的なのは、神の沈黙である。なぜこんなことになるのか、という人類普遍の問いが、雄大な映像と緻密に作り込まれた音響の中で、まるで洪水のように登場人物たちの問いに重ねられていく。神のかたちである。
 人間の創造性の発露として映画『ノア』は稀有の映像体験である。

神が創造物破壊する悲しみ描く 映画『ノア 約束の舟』 アロノフスキー監督 2014年6月7日

 

 8月にはポーランド生まれの映像作家パヴェウ・パヴリコフスキ監督による『イーダ』が公開された。1960年代初頭ポーランドにおいてカトリック孤児院で育ったアンナは自分がユダヤ人であるという衝撃の事実を告げられ、亡き父母の面影を探る旅に出る。モノクロームの陰影が修道女として生きようとする少女の繊細な心の揺れを描く。罪ある人間であること、世界の残酷さの中でアンナが見出したものは何なのか。ハリウッド映画にはない文法で信仰者という人間が描かれた作品である。

 『イーダ』にも賛否両論あるだろう。アンナが修道女にあるまじき行いをするからだ。しかし、一人の女性としてのアンナが悩み決断していく過程として、それらの罪は描かれている。人間であることの悲喜交々を真正面から受け止めた少女が一人の人間として歩き始めていく物語『イーダ』は罪ある人間を、それでも肯定する人間讃歌である。

 

 7月からは『大いなる沈黙へ』が順次全国公開された。ドイツ人フィリップ・グレーニンク監督によるカトリック修道会コルトジオ会の男子修道院の記録映画である。厳格な戒律の中で、祈りと労働と沈黙に生きる修道士たちの姿を音楽や特殊効果を一切用いず、その日常の静謐さ、能動的で躍動的な生の在り様、神の前に沈黙する喜びを描く。

 修道院生活は、プロテスタントの読者にはなじみのないものだろう。しかし、修道士たちの霊性の源泉が、聖書と礼拝、絶え間ない黙想と祈り、他者のための労働にあると知ればどうだろうか。

 宗教改革の際、カトリックを形骸化と断じたプロテスタントが捨て去った象徴と沈黙の内実が、この映画には満ちている。聖俗の区分なく誰もが自由に「祈り、働け」と生きることを掲げたプロテスタントの現状を考えさせられる。神に祈るのは自分の願いばかりで、秩序を保ち沈思黙考すること、春を待つ冬のように神の声を待つことの豊饒さが、この作品には溢れている。プロテスタントの限界と可能性を意図せずして浮き彫りにした作品である。

 

 『ノア』では神は沈黙していた。『イーダ』は人間であることを描き、『大いなる沈黙へ』には、神の前での沈黙の喜びが溢れている。これら三つの作品から学ぶことは、非言語的なキリスト教的感性の価値である。プロテスタント信仰は言語的であるが、言葉だけではコミュニケーション不全に陥ってしまうのだ。聖書の黙示録を読むように、丁寧に映画を読み解けば、これらの作品は、聖書と人間と信仰の持つ身体性への気付きを与えてくれる。激しい風、地震、火の中にいるような日常生活かもしれない。しかし、これら映画の余韻の中で、エリヤのように聖霊の「静かにささやく声」(列王記1912をあなたも思い出すかもしれない。

 

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【Ministry】 特集「引退―そのとき、牧師と教会は」 22号(2014年夏)

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