【追悼特集】 シリーズ・21世紀 神学の扉「バルトの神学」 天野有氏インタビュー(上) Ministry 2016年春・第29号

本当に苦しいときに
大事な言葉を語ってくれる

 ドイツで神学を学び、カール・バルトの著作を相次いで翻訳。常に第一線でその真髄を日本に伝え続けてきた天野有氏(西南学院大学神学部教授)。その研究の動機には、意外にも牧師として直面した大きな壁があった。

神学部2年目
夏期研修で突き落とされる

――カール・バルトに興味を持ったきっかけは何ですか?

天野 西南学院の神学部に入る1年ほど前から田川建三の急進的な聖書学に惹かれていたんです。でもそれも2年ぐらいで行き詰まってしまって、自分自身、「牧師になる」どころか、クリスチャンであることの必然性すら分からなくなってしまったんです(ただし、田川先生の現在のお仕事にはある敬意の念は持っております)。それでどうしようもなくなっていた神学生2年目の夏に母教会である常盤台バプテスト教会に神学生として研修に行ったんですが、そこで松村秀一牧師から、初めてバルトの Credo(『我れ信ず』)の名前を聞かされたんです。

 戦時中、大牟田教会の牧師をされていた松村牧師は、Credo を読んでのどがぶるぶる震えるほど感動したと。ちょうど私が教会事務の手伝いをしていたとき、昼にたまたま呼ばれて、本当に短い時間だったんですがそういう話をしてくださいました。それがバルトの名前を印象的に聞いた最初ですね。

 実は3週間か4週間続いたその研修中、私はまさに「研修」ということで、松村先生ご夫妻がいちばん前に座られての夕拝で、3、4回続けて説教しなければならなくなったんですね。その1回目の説教の後に、そこの信徒の壮年の方が私の方に向かって来られたんです。中小企業の社長さんで、1日40章ずつ聖書を読むという方だったんですが、その方につくづく「君は神様のことが分かってないな」と言われて、突き落とされましたね。

 その壮年の方も含めてあと何人かの教会員がいる非常に小さな礼拝だったんですが、1回目にそういうことがあったものですから、その後はもう本当に逃げたくなるような中でやりました。けれどもその経験が大きかったですね。その強烈な日々の中で、ある日の昼下がりに松村牧師からバルトの名前を聞かされた。それで、秋になってまた福岡に戻ってから少しずつバルトを読むようになりました。

――バルトを読んだのはそれが初めてだったんですか?

天野 そうですね。その年の秋から少しずつ読み始めて、『バルト著作集』第10巻の『教義学要綱』(井上良雄訳)、『福音主義神学入門』(加藤常昭訳)の二つを読んだのが最初でした。

――では、そこからどうやってバルトに引きずり込まれたんですか?

天野 それが、西南学院の残りの1年半でどのくらいバルトを読んだか、あまり記憶にないんです。ただ卒業するときに、同期で私より4歳上の片山寛さん(現在同僚)が九州大学の大学院に行きながら牧師をすることが決まっていて、福岡に残って、しかも大学院に行きながら牧師ができる……というのがすごくうらやましいなあと思いながら、自分は奈良(バプテスト)教会に招聘されたので、そこで牧師になったんですね。で、牧師として3回説教したらもう語る言葉がなくなってしまって(笑)。本当に3回なんです。3年間神学校で勉強して、牧師になって3週間説教をしたら、もう何もなかったんです。それから2年間牧師をしたんですけど、残り100回ぐらいはひたすらバルト著作集の、あれは第16、17巻でしたか、そこの、バルトの説教を読んでひたすらそれをテキストにして、下敷きにして。それで毎回の説教を切り抜けました。

終末が来れば
説教しなくて済む

――バルトの説教をなぞるようにしながら語ることで、ずっと牧師の生活をなさったんですね。それによって、バルトの世界に夢中になっていったということでしょうか?

天野 そうですね。聖書箇所もそうだし、そこで語られていることも自分の言葉に直したり、分かりやすく言い回しを変えたり。私の感覚では、溺れる者はわらをもつかむというけれど、むしろ海の上をビート板につかまってバタバタ進むような感じ。そうやってしか生き延びられなかったんです。26歳くらいで牧師になって、すでに結婚していましたけれど、奈良教会の役員はみんな40代半ばか50代くらいのバリバリやっている人たちばかり。こっちは若造だし社会経験もないので、この世で一生懸命生きておられる壮年の方々に比してひたすら肩身の狭い思いをしていました。

 でも、今振り返ると、そういうこと以上に牧師として説教がいちばん苦しかった。「今度の日曜が来る前に終末が来ないかなあ。そしたら説教しなくて済むなあ」と。それくらい説教から逃げたかった。でもやっぱり考えてみたら、そうしてバルトに導かれたのかもしれませんね。

――先生は牧師の息子でいらっしゃいますし、説教は物心つく前から聞いていらっしゃったと思いますが、それでも説教ができなかった。

天野 牧師家庭に育ったことには深く感謝しています。――ただ、今でも断片的にいろんな場面を覚えていますが、30人余の教会員の前で説教しているとき、親が役員をしている小学校の4、5年生くらいの女の子が、私のすぐ目の前で、ものすごく真剣な顔をして聞いているんです。そういう女の子の真剣な顔は今でも心象風景のように残っていますね。私にとって、説教がどれだけ怖い場所かということは、その小学校の10歳ぐらいの女の子が目の前でそういう顔をしてこっちを見ている、それに対して自分は何を言えるのか、語れるのか、といった感じですよね。一人の人間として、真剣な人というのは何歳でも関係ないですが、そのときはそう強く感じました。

――でも今でも教授として教えていらっしゃるわけですし、西南学院に進まれる前には、早稲田の教育学部を卒業され、教員の勉強もされているのですから、人に話すのは苦手ではないのではないですか?

天野 早稲田に入ったころは、「まあ、先生にでもなろうかな」みたいな感じで、特に明確な目的意識があったわけじゃないですからね。子どもが好きとかでもないですし。今でも私は、特に教員が向いているとは思わない。ただ申し訳ないですけれど、それからはもうバルト研究しかしなくなってしまって。これからもひたすらバルトだけでやっていくことになると思いますが、それをやっているからこそ、かろうじて学生の前に立てる。これをしなくなったら、もう怖くて出られないですよ。

――やはり牧師時代、バルトをご自分の説教のよりどころにされる上で、バルトの説教集を熟読されたのでしょうね。

天野 そうですね。自分自身がバルトの説教を読んで救われたい、という思いで求めていたし、実際に救われたという感覚があったからこそ、その説教を下敷きにできたんでしょうね。たまたまバルトの著作集16巻と17巻を合わせたらちょうど100編くらいになるのですが、ほとんどそれを1編ずつやりました。もっともドイツ語はようやく神学校で青野太潮・寺園喜基両先生の手ほどきを受けながら読み始めたばかりだったし、原文なんて手元になかったですから、ひたすら翻訳だけで熟読しました。

――しかし結局、牧師は2年で辞められることになったのですね。

天野 そうです。だからもう、そのときはすぐにでも大学院に行って勉強したいと思っていたわけです。同期の片山さんがすでに行かれていましたから、彼に受験勉強の仕方を習って。ドイツ語の試験もあったので、ドイツ語もそのときしっかり勉強し直しました。

――そして九州大学大学院に進まれた。なぜバルトだったんですか? 牧師を辞められて、学究生活の中で食い扶持を得ようと思ったらバルトよりは他のことをしたほうが選択肢は広がったと思うんですが。

天野 九大大学院に決まったときに母教会の常盤台バプテスト教会のある壮年の方から「転身おめでとうございます」と言われて、私は全然そういうつもりはなかったのでびっくりしたんです。別に道を変えたわけじゃない。学者になろうと思ったわけじゃないけれど、牧師はもうできない、続けられない。かといってまた牧師に戻ろうという思いもほとんどなかったですしね。なかったというよりも、勉強をもっとしないといけないから牧師はやれない、でも勉強したからといってまた牧師に戻れる自信が与えられるとも思っていなかった。かといって学者になろうとも思っていなかったんです。

 九大を受けるというとき、ちょうどまだ父親が仙台の教会の牧師だったので相談しに行ったんですが、そのとき、ある方から、「そんな、もう29歳にもなろうっていうときに大学院に行ってどうするんだ」と言われたこともあって。そう言われても私は全然ピンとこなかったんですね。「29歳でもなんでも関係ないじゃないか」と。それくらい世間知らずだった。29、30歳になって大学院行って、ということが普通はありえないことだとは考えなかった。そんな感じでしたが……、とにかくバルトに引き戻されたわけです。

バルトは一緒に生活して
助けてくれる妻と同じ

――天野先生にとって、バルトのいちばんの魅力はどこにあるんですか?

天野 夫婦と同じじゃないですかね。結婚して36年経ちますけど、一緒に生活して同じ時を共有して。うちの場合とにかく、牧師時代も学生時代も夫婦で一緒にいる時間が他の人よりも何倍もあるわけです。そういう意味では本当に一緒に暮らしているという感じがありましたけれども、バルトもそうでした。他の神学者の著作も読んだりはしますが、私にとってはもうバルトしかないというふうに、そこに行き着きましたから。

――妻の魅力、と言っても、一緒にいることが当たり前過ぎて、説明するのも難しいかと思いますが、バルトの魅力がお連れ合いと同じ、と言いますと……。

天野 妻に感謝していることは、本当に苦しいときに大事な言葉を語ってくれるということですね。自分がどんなふうになっても受け入れてくれる。私にとってバルトは、妻と同じで、自分をとにかく助けてくれる人、支えてくれる人、そんな存在です。そういった思いをもって、その著作を読んでいました。

天野 有
 あまの・ゆう 1955 年静岡県生まれ。1979年早稲田大学教育学部教育学科卒業。1982 年西南学院大学神学専攻科修了。1982 ~ 1984 年、日本バプテスト連盟 奈良キリスト教会牧師。1991 年九州大学大学院文学研究科博士後期課程中退。1993 年ドイツ・ヴッパータール教会立神学大学にて、ベルトルト・クラッパート教授のもとで神学博士号取得。日本バプテスト福岡基督教会員。西南学院大学神学部教授。2018年10月17日、食道ガンのため逝去。62歳。

【追悼特集】 シリーズ・21世紀 神学の扉「バルトの神学」 天野有氏インタビュー(下) Ministry 2016年春・第29号

【Ministry】 特集「教会のリーダーシップ論」 29号(2016年5月)

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