【映画評】 『バハールの涙』 太陽の少女たち 2019年2月11日

 クルド人でヤズディ教徒の女性弁護士バハールは、幸福な家庭生活をIS(イスラミックステート)の暴虐により一瞬にして奪われる。本作は、夫を殺され子を攫われ、性的奴隷に身を貶められた一人の女性が、やがて女性兵士のみによる戦闘部隊を率いるまでを描く。

 バハールの部隊に随伴し、本作の語り手となるのはフランス人の女性記者マチルドだ。マチルドは戦乱で夫を失い、幼い子供を母国に残してきた。戦場に立つ理由も立場も異なる二人は、わが子への愛情という一点を通じ互いを信頼し合うようになる。

 本作における戦場描写は極めてリアリスティックだが、視点はあくまで女性主観に置かれている。マッチョイズムや戦闘描写を目玉とする従来の戦争映画と一線を画す本作を撮ったのは、ソルボンヌ大学で英西文学を修める俊英の女性監督エバ・ユッソンだ。撮影に際し、顧問の元クルド兵が本気で地雷の心配をしたほどの迫真性をもつ映像は、このために反面とても詩性に充ちている。霞がかった丘上の廃墟を一夜の根城とした女性兵士たちは歌い上げる。

 〝この体と血が土地と子孫を育む〟
 〝母乳は赤く染まり、私たちの死が命を産む〟
 〝新しい時代がやって来る。女、命、自由の時代〟

 本作に登場する女性兵士たちは皆が皆、IS支配のもと性的奴隷とされた過去をもつ。そこに働く幾重もの構造的な抑圧は、言うまでもなくISの暴虐のみに帰せられるものではない。むしろ文化的・社会的に根づく抑圧を、ISは自らの支配に巧く利用しているだけとも言える。だからこそ逆に、彼女たちとの戦闘をISの戦闘員は過度に恐れる。彼らが信奉するジハード(聖戦)の教えによれば、女に殺された戦士は天国への道を閉ざされる。聖戦における殉死の栄光が、そこではただ意味を失う。

 さて、“Les filles du soleil”(太陽の少女たち)の原題をもつ本作の後半部で、膠着打開のためバハールはIS司令部への突貫を訴え、敵地潜入の危険な作戦の先頭に自らの部隊を立たせる。バハールは女性兵士たちを鼓舞する。「私たちの存在こそ勝利」「敵が理解できないのは、私たちの命への執着」「戦うことが勝利」なのだと。部隊全体に、灼熱のごとき士気が漲る。表面上はイスラームの規範を掲げながら、その本質はただ恐怖により人々を支配するISという組織が抱える自己矛盾を、彼女たちの存在はこうして恐怖自体によって喰い破り、明るみへと引きずり出す。

 今日ではよく知られるように、革命を志す社会集団はしばしば子を親から切り離し、洗脳教育を施して戦争機械とする。ISやボコ・ハラムといったイスラーム過激派のみではない。古くはキリスト教徒の子弟を精兵化したオスマン朝のイェニチェリ、現代ならば文化大革命での紅衛兵、ポル・ポト大虐殺におけるクメール・ルージュの少年・少女たちが殺戮の前面に立たされてきた。バハールの部隊が猛攻をかける敵司令部のそばには、誘拐した子供たちへ戦闘訓練を施す《小さき獅子の学校》がある。バハールは、そこにわが子の気配を察知する。彼女の部隊は《小さき獅子の学校》へと乗り込んでいく。

 廃墟化した校舎の一角へと侵入したバハールが見据える銃口の先、射し込む陽光に照らされて白く輝く砂埃の奥向こうに、機関銃を構えて立つ少年の影が対峙する。音無しの空白があたりに充ちる。元始、女性は太陽であった。バハールを演じるゴルシフテ・ファラハニの、芯の強さと怯えとが同居するまなざしの孕む、透徹して鋭利な美しさが忘れがたい。(ライター 藤本徹)

 1月19日より新宿ピカデリー&シネスイッチ銀座ほかにて全国公開。

監督・脚本:エヴァ・ウッソン 出演:ゴルシフテ・ファラハニほか
配給:コムストック・グループ + ツイン

©2018-Maneki Films-Wild Bunch-Arches Films-Gapbusters-20 Steps Productions-RTBF(Television belge)

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